2018年04月22日

北京 故宮博物院のコレクションの由来



北京 の紫禁城にある故宮博物院のコレクションがどこからきたか、という問題は、何度も
とりあげたが、ここで、故宮文物南遷とからめて、考えよう。

まず、北京から南京、重慶へ運ぶときに、北京に置きっ放しになっていた文物も結構あった。
これをもとに、池田醇一氏の旅行記によると、日中戦争中も紫禁城・故宮博物院が細々ながら営業していたことがわかる。これは、日本軍の傀儡といわれた北京政府が運用していたのだろう。

また、国民党軍が南京から敗退したあとに、倉庫に残されたものもあって、それは日本軍が放置・保存していたものである。元南京博物院院長梁白泉氏の証言
>「一部の文物は南京の倉庫に残されたままになっていましたが、日本が南京を占領していたときも、これらの文物は破壊されず、手つかずで残されていました。」
もあり、疑いない。

もう一つ問題なのは、日本敗戦後、重慶から南京へ戻った文物は、1949年までは、どうやら北京には戻らなかったらしいのだ。南京でしわけされて、台湾へ運ばれたようにみえる。これをはっきり書いてある本が少ないので、よくわからなくなる。この、台湾へ移動されずに南京に残された箱のうち、
中華人民共和国成立後、大半が北京へもどったが、2000箱が南京にのこされて南京博物院が管理していて、いまだに論争のネタになtているらしい。これらの大部分はそれほど良くない陶磁器のようである。
そうすると、この2000箱には、日本軍が放置したものも多いのだろう。

また、中華人民共和国成立寸前の北京 故宮博物院長 の馬衡氏は共産党シンパだったので、南方への移送をサボタージュしたという。そうすると、日本軍占領下の北京故宮博物院にあった文物はほとんど台湾へいっていない。

そうすると、1950年代の北京故宮博物院の中身は、、
日本軍占領下の北京故宮博物院にあった文物
+台湾へいきそびれて南京に残った文物の大半
+ラストエンペラーから没収した文物
などが中心ではなかったか?と思っている。










posted by 山科玲児 at 13:41| Comment(0) | 日記

歴史を知るのは難しい

大孟鼎 全景 ss .JPG

歴史のちょっとした日付を知るだけでも、多大な労力がかかるものだと、また痛感しました。

潘 祖蔭(はん そいん)(1830年 - 1890年)が大孟鼎(現、中国国家博物館、北京 イメージ(1959年だから著作権フリー画像))
左宗棠(さ そうとう、1812年- 1885年)から贈られたのは何時か??

ということが、
山東の大蒐集家  陳介祺の潘氏への手紙集(ref) を読んでいたらわかりました。

同治13年の7月11日の手紙には、左宗棠から送ってもらえるような話が書いてあり、梱包にきをつけるように書いています。
光緒元年1月11日夜の手紙には、北京の潘邸へ既に届いているようで、そのお祝いを陳介祺は、書いています。
光緒元年1月11日ってのは現代の暦では1875年の3月初めです。

潘氏が、弾劾された左宗棠を宮廷で弁護した御礼にもらったという俗説がありますが、弾劾されたのは1860年、15年も前です。そりゃ長年の友誼の初めでしょうが、直接につなげるのは間違いでしょう。

潘氏の伝説・俗説に大孟鼎と大克鼎の両方を蔵する建物として、攀古楼をつくったというのがありますが、此の名前は1872年に既に自分の青銅器銘文解説本の名前で使っているので、2つとももってないときのものであり、本自体にも二鼎はなく、全くの憶測。虚報です。
 こういう嘘を平気で英文ウイキペディアに書く中国人がいるから、情けない。軽信が過ぎるんじゃないの。
REF, 秦前文字之語、 斉魯書社、1991
posted by 山科玲児 at 05:25| Comment(0) | 日記

2018年04月21日

本体が確認できるようになった

丹徒 角形器.JPG


この拓本は、昭和時代に東京で、なぜか迫力を感じて買ったものなんですが、本体がなんなのか何年もわからなくて困ってました。 たんなる悪戯かもしれないのですからね。現物がないのに、拓本を創作してしまうことも実はあるんですよ。一種の絵や模様として、作られることがあるんですね。
伊藤若冲の拓版画みたいなものです。

数年後に、樋口隆康氏の西周青銅器の本の小さな雑なたぶん中国の雑誌からの転写の図版をみて、
ようやく1954年に丹徒の宜侯墓からでた 三角の口がある三角錐のような青銅容器が現物だったと推定しました。

実物は鎮江博物館にあるようです。
最近は丹徒 宜侯 角型器 などをキーワードに検索すると、カラー写真をみることができるようです。
細かい錆びや欠損箇所まで厳密に一致しています。鎮江にあるあれから採った拓本なんだと確信しています。

こういう点では、情報が集めやすい世界になったなあ、と思ってます。



タグ:拓本 青銅器
posted by 山科玲児 at 10:03| Comment(0) | 日記

1200個の青銅器??


 中国のファンタジー的  文物話で、最近  あきれたのは、
 1890年に陜西省 法門寺任村で、大克鼎(現、上海博物館)が出土したとき、一緒に1200点も青銅器がでてきた、、
  というのがあります。
  白川静さんの記述で十八個なんですが、、
  一体、なにを数えたんだろう。。

  ひょっとして、矢ジリとか、銅の破片とか、当時はコインはないから硬貨じゃないしね、、、

 いくらなんでも、1200はないんじゃないかなあ。。

 殷虚婦好墓で四六八件だったかな、、あのクラスの未盗掘墓が3つ分とかならなんとかいいかも、、
 でも根拠がないから、なんか白髪三千丈の誇張じゃないかしら?

posted by 山科玲児 at 09:28| Comment(0) | 日記

2018年04月20日

ファンタジー歴史


  大孟鼎の出土後の伝世の歴史については、中国でいろいろな伝記小説のような記事・お話があるんですが、もうファンタジー小説というかみてきたような嘘が多くて、時間的な矛盾がてんこもりです。うんざりです。
  左宗棠関係のお話にも伝記小説というかフィクションが多いのには呆れます。

  ただ、要石としては、呉大徴の記述がキーになりそうですね。
  1873年冬に 呉大徴が西安付近で、袁世凱の叔父のところで、大孟鼎本体をみたという記録が里程標・キーポイントになると思います。実はこのとき呉大徴は西安に公務でいっているので、いろいろな方向から証拠があるものなので嘘ではなさそうです。



タグ:金文 大孟鼎
posted by 山科玲児 at 20:54| Comment(0) | 日記