2016年02月21日

東京国立博物館蔵 蘭亭序巻子本の解剖


陳鑑 印  比較.jpg


書聖 王羲之 展  図録

           http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1569

  80番のチョ模蘭亭の巻子本は、明成化5年ごろの陳鑑刻本なのだが、従来の解説を踏襲して「宋拓」としているのは残念だ。明時代に刻した法帖の拓本を宋時代に拓本にすることなど不可能なことである。上のイメージのように原石自体に「翰林陳シュウ煕氏書画印」という印影が「刻」してある。右1/3ぐらいしか残っていないので、これだけでは読めないだろうから、左に他の書画におした陳鑑の同じ印影を重ねて合成してみた。
 1万歩譲っても明時代中期の陳鑑以降の刻本である。宋拓なんてありえない。

 この蘭亭序拓本の巻子本は、王鐸の蘭亭序臨書も収録されていて、なかなか面白いものなのだが、長大な巻子(5m以上はある)なので、公開の場で全部ひろげられたことはないと思う。あるとき、比較的長く広げたことがあって、その複雑な来歴に、中国風の書画鑑賞の姿勢を実感したものである。中国の収集家が、古い書にたいして後ろに感想文や関係資料臨書をつけくわえて、1つの大きな巻物にするやりかたがよくわかる。
  幸い、東博のネットで全部の写真をそこそこの解像度ながら観ることができる。私もこのネット公開で初めて末尾までみ
ることができた。
       E0029204 チョ模蘭亭序(宋拓) - 東京国立博物館 画像検索                      
 これは、旧 高島菊次郎コレクションで、呉栄光(乾隆38(1773)〜道光23(1843)嘉慶4 (1799) 年の進士。)旧蔵という伝来を誇る筋の良いものである。
 拓本自体は、明 明成化5年ごろの陳鑑刻本であるが、後半の米?の跋までちゃんと拓してあるので、上海図書館の同類と比較できとてもありがたい。 
  
  拓本の次には呉栄光の跋があり、その周囲にメモが貼り付けてあるが、貼ってあるということは巻子になってから書いたものではなく、前に書いたものを貼り付けたのだろうがちょっと妙なやりかたである。

 その後に、王鐸の蘭亭序臨書がある。この臨写本は戦前からなんども影印 印刷出版されているし、王鐸人気とあいまって知っている人は多いだろう。ところが、これは実は冒頭の拓本の臨書ではない。いわゆる「領字従山本」であり、冒頭の拓本とは全く違った拓本か模写本(例えば台北故宮 保管の 黄絹本蘭亭とか)を臨写したものである。冒頭の蘭亭拓本に大きな王鐸の印が2つも押してあるので勘違いしやすいのだが、関係がない。もともと別々のものを後世に合わせたものである。
 いったいだれがいつ組み合わせたのだろう? 
 冒頭に、呉栄光の1,2世代先輩の馮敏昌(1741年−1806年) 号「魚山」 乾隆43年翰林 の題簽(イメージ)があってそこに王鐸臨本が付属していると書いてあるから、馮敏昌ではないだろうか?またこの王鐸の書の末尾には呉栄光の所蔵印があるので呉栄光のところでも一緒になっていたのは間違いない。
東博 呉栄光 蘭亭 巻 冒頭.jpg


で、この王鐸の臨本のあとに茶色の紙に蘭亭を模写した署名なしのものがついているのだが、これが怪しさ爆発のもので北宋徽宗皇帝の印や南宋 高宗皇帝の印や明の大蒐集家の印などがあるが悉く偽物のようである。この模写本は、行間隔をみると、どうも拓本から作ったものではないか?と思われるもので、それを唐模本に仕立て上げたもののようである。ただ呉栄光自体がこれを組み合わせたのは確かなようで、冒頭の呉栄光の題簽(イメージ)には「附臨本二」となっている。ただ、あまりひどいので呉栄光の所蔵印すらこの模本・偽物には押してないようだ。それで、題簽の「二」というのは後入れかもしれないという疑惑もわく。
  そのあとに、前述の馮敏昌の臨本がついているので、これは冒頭の蘭亭拓本の臨写本かと思ったら、全く別の「国学本」の臨写らしい。なんじゃこれは。国学本のイメージは以下にある。縦の罫線があるので冒頭の拓本と間違えようがない。
    国学本蘭亭序 孔氏嶽雪楼 旧蔵本
     http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0031688
更に、そのあとに陳?という人の蘭亭臨本があるのだが、これに至ってははっきり「国学本を臨写した」と書いてある。

  最後の潘正キ(1791-1850)の蘭亭臨写本にいたってようやく冒頭の拓本の臨写になるのである。この最後の潘氏は聴帆楼主人と号した広東の有名な蒐集家だったし、馮敏昌も広東なので、どうも広東で潘氏が最終的にこの巻物を仕上げたらしい。後半についている3つの蘭亭、あるいは4つの蘭亭は呉栄光と関係なく潘氏が組み合わせたのかもしれない。
 最後といたtが、本当に最後なのは一行だけの山本竟山の題記で、これは日本にきてからのものだと思う。

  このように複雑怪奇なこの巻物の状況をみると、中国の書画巻というのは、有名人の名画名跡に後世の人が跋(感想文)を付け加えて長い一巻になるというような単純なものではないということがわかる。もっと複雑で利害がからむややこしいものもあるのだ。



posted by 山科玲児 at 09:54| Comment(0) | 2016年日記