2016年03月30日

法華経と自己言及

長谷寺法華変相.JPG


2012年5月8日の
    ドイツ女性の王朝美術研究
    http://reijiyamashina.sblo.jp/article/55715113.html
で 紹介した
    王朝美術における結縁装飾法華経 (美の光景)   2010/10
             ヘレーネ アルト   (著),    江上 綏 (監修),    Helene Alt (原著)
               http://www.amazon.co.jp/dp/4634523213/
を西本願寺三十六人家集や扇面法華経の関係から再びひもといていた。

  装飾経は、平家納経・久能寺経など、ほとんどといっていいほど 法華経なので、法華経の概要も解説してある。
  そこで、再度 聖徳太子の法華義疏を少し読んだときのことを思い出した。

 法華経は, 塚本邦雄の[けさ開く言葉]のなかで引用されていた、薬草喩品の言葉に触発されて、文庫で読もうとしたところ、全く面白くなくて途中で放棄、そのあと法華義疏だけは、聖徳太子への興味から買っておいていたものである。

 とにかく、法華経というのは、自己言及がむちゃくちゃに多い。「法華経はえらい」「法華経は最高」「法華経を護持し宣伝するものにはこういうよいことがある」ということが連続して「法華経」自身に述べてある。では、その「法華経の中身」とは何か、というと何も書いていない。というかそれ自身であり混乱する。「この文は最高の真理である」「この文は嘘だ」というような自己言及命題のような感じで、なんというか違和感ありまくりである。「真理はXXだ。」「阿弥陀如来に帰依して極楽往生しよう」というような叙述型の文章ではない。また、維摩経のような論争型の文章でもない。

  この辺、ゲーデルの不完全性定理や、論理学のパラドックスにでてくる論法に近いところがあり、読者を煙に巻くというか困惑させる。読む人が篤信の人ならむしろこの奇妙な論理の渦巻きにまきこまれてしまうのではないか?
 カルト的といわれる所以である。

 ただ、そこに展開するドラマはまさにオペラのような華麗なもので、インド的な法外な想像力が横溢しており、非現実的超宇宙的な巨大な数字が続出し、日本人には到底及ばないものを感じさせ圧倒させる。特に見宝塔品は圧巻である。

  また、様々なたとえ話によって、どうやって法華経の教えにたどり着くかという「行」「過程」を強調しているところが、日本人に受けたところではないかなあ、と想像したりする。到達点は無というか全く記述されないのだが、その過程=方便=たとえ話が具体的である。こういうのは「禅の悟り」にも近い気がする「悟り」そのものは何かわからないが、それにどうやって到達するか、という問題を様々に論じているところが似ている。道元禅師は、法華経の如来神力品を唱えながら終焉をむかえたそうだ。

 また、
 古代の没落と美術―ミイラ肖像画とその時代 (1973年) (美術選書) 1973
   岩山 三郎(-1997)
に、三世紀ごろのアレクサンドリアで展開されたグノーシス主義の影響を法華経にみるみかたがあって、面白かった。
  少し引用すると。
>「インドの釈迦族の王子に生まれ、悟りを開いて教えを説き生涯を終えた釈迦(ゴーダマ シッダルタ)は衆生を救うための『方便』としてこの世に現れた仮の姿であって、真の釈迦とは永劫の過去から未来にかけて存在する永遠的存在なのだと法華経は説いている。これは一種の仏教プラトニズムだ。」

 イメージは長谷寺法華変相 銅板


 
タグ:法華経
posted by 山科玲児 at 09:06| Comment(2) | 日記