2016年04月02日

佐野の渡し

佐野渡 屏風.JPG


  これは、1958年の美術雑誌 国華 に掲載された 佐野渡図屏風の一部である。当時はハワイにいるアメリカ人の所有だった。
  なんとなく宗達風、琳派風であるが、描いた画家は、
立林何[臼+巾](たてばやしかげい)
>「江戸時代中期の画家。名は立徳。号は何[臼+巾],金牛道人,喜雨斎。伝記は不明な点が多く,初め加賀の前田家の侍医を務め,のち江戸へ移住し,白井宗謙と改め,鶴岡逸民とも称した。作品に尾形光琳の「方祝」印と類似した印章を用いたため,光琳の弟子とされたこともあるが,元文3(1738)年に尾形乾山から光琳の模写した宗達扇面画を贈られているので,江戸で乾山に絵を習ったと考えられる。 」
という人らしい。

 この絵は、藤原定家の和歌
   駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮[新古今671・定家]
を下敷きにしている。
  同様な絵は蘆舟などにもあり、結構多いものらしいが、これはなかなか保存も良く綺麗だと思う。
  さて、この定家の歌は、いかにも新古今的な手の込んだマイナス方向の歌で、
  「駒とめて袖うち払ふかげ」も⇒ 「なし」 なんだから、ホントは、馬も袖も人物も何もないのである。ただ、あるのは「雪の夕暮れ」のみ。
   それなら、この屏風絵は実は間違いなのだが、[佐野の渡し]の絵はこういう図様で描くということに伝統的になっているのである。 和歌の通り描くと描くものがなくなってしまう。何もない屏風になってしまうからだろう。

  こういう風に、なんか派手な色彩的な言葉を前に出して、直後に打ち消して荒涼感を漂わせるというのは、定家の得意技のなかで後世に評価されたものらしく、もう一つの有名な和歌

   見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮[新古今、363、藤原定家]
も同じ仕掛けになっている。
  しかも、これらは千利休に高く評価されて茶道の美学の真髄とされているのである。

  この定家−>千利休ラインのこの美学は、確かに一つの頂点かもしれないが、日本的感受性・美学をこういうところに限定するのはいかがなものか?と思う。枕草子や古今集で、直球タイプの王朝美学に触れると、こういうセンスは、いかにもねじ曲がったひねくれた陰気な美学のように感じられる。ただ、王朝文学のテキストを集大成した優れた批評家・文献学者でもあった定家の美学が全てこれだとは到底思えないわけで、応仁の乱・戦国時代を経て千利休に至る間にこういう側面が強調されたということではないか?と思っている。

  和歌における定家の理論の影響は非常に大きいものがあって、あの独自性の強い知性である丸谷才一の力作である新々百人一首(下イメージ)でさえ、その美学理論が定家に依存し収レンしているように感じられる。
   この「アララギ派の見方を打破しよう」とする気迫満々の丸谷才一ですら、アララギを脱けだしたら定家に落ち込むのかよ? とがっかりしてしまう。 まあ、応仁の乱などの影響で平安時代の文献への道が狭くなり、定家を通る道しかなくなってボトルネック状態になっているのは確かだとしても、もう少し独自の見方にならないものか?と思うところである。池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻にも収録されている力作なのだが、そういうところがひっかかっている。

  私としては、もう少しおおらかで古代的な紀貫之の序文などのほうが親しみやすく思われる。

新々百人一首.jpg
posted by 山科玲児 at 10:12| Comment(0) | 日記