2016年06月06日

プラドのラトゥール展

プラドのラトゥール展
 (〜6月12日)

 5月30日にはボッス展のプレビューのあおりをくってみることができなかった。もしタイトなスケジュールでラトゥール展を見に来た人なら激怒しただろう。

 今回5月31日 4時以降と、6月1日午前、6月3日午前、で鑑賞した。正直いって5月31日に限っては、本命ボッス展より感銘が深かった。 空いていて、ゆっくりおちついて観賞できたことも大きい。

  私のターゲットは、パリからは遠いレンヌにある「聖誕」 だったが、これは ほぼ予想通りの傑作だった。ただし、おそらく100年以上クリーニングされていないのではないか? ニスが黄色くなって劣化しているせいか、なんとなく霞を通して絵をみているような感じがつきまとう。もしクリーニングしたら、 聖母の指、聖アンナの微妙な表情と右袖、聖母の中近東風の衣装などもより明確で輝かしくなるのではなかろうか?と思った。

あとの2つは、米国からのレンタルである。
  ひとつは、メトロポリタンのBonne diseuse
 ここまで豪華絢爛な絵画だとは思わなかった。修理とクリーニングのやりすぎなのか?と疑わしくなる
ほどである。金彩やハイライトを駆使した衣装の布の輝かしい表現は目を奪うばかりである。

 真ん中の男女2人の表情は巧みで、左のロマ(ジプシー)の女の黒髪のハイライトとちょっと威嚇するような表情もよい。 ただ、主人公のひとりである右側のばあさんの顔は類型的である。

 次が、ワシントンのファヴィウスのマグダレーナ、これは表情がかなり危ない、なんか微笑しているような感じもあって、じっとみていると魂が危ないところに吸い込まれていくような危険な絵だ。
 左下部分には欠損があったようにみえる。

この2点がフランスから米国へ流出したのは、関係者にとっては痛恨だったのではないか。
メトロポリタンの購入は1960年だから、ホーヴィングではなくロリマーのころであろう。

 この展覧会で、私にとって衝撃だったのは、この3点に尽きる。日本やルーブルでみたことがあって、再度みても印象深いのは「聖ヨゼフの前に現れる天使」「聖ヨゼフと少年キリスト」「ノミをとる女」である

  メトロポリタンのワイトマンのマグダレーナは子供っぽい顔と熟れたような肉体の対照が興味深いが、それ以上ではない。 ロサンジェルスのマグダレーナは子供っぽい顔と熟れたような肉体の対照が興味深いが、それ以上ではない(ロサンゼルスでした。訂正します。)。また、これはほぼ同じ絵がパリのルーブルにある。どうも混乱しやすいね。  米国のキンベル美術館とルーブルのイカサマカードが向かい合わせに展示されていた。衣装ピンクがBonne diseuseの男とよくにているという点ではキンベルが優れているのかもしれない。ルーブルのほうはもっとマットで赤みの強い布である。左の2人の表情はルーブルのほうが自然で、キンベルの方はわざとらしすぎる気がする。
 2点の聖ヒエロニムスには特に優劣はない。

  とにかく空いていて、観賞には有り難いが、実績・営業という点では失敗だったようだ。マドリードにはあわないのかな。。


posted by 山科玲児 at 08:24| Comment(2) | 日記

ボッス展



bosch 2016.JPG

速報 ***

  2016年 5月31日、6月1日、6月3日の3回観賞

  全体としての印象では、

 「快楽の園」 は、その大きさも含めて圧倒的なマスターピースであり、おそらく30ー40代の壮年期で体力気力とも頂点であった画家の作品であろう。外側のグリザイユも含めて、つけいるところがまったくない。

 今回、傑作として評判の高い リスボンの「聖アントニウスの誘惑」と比較することができたので、ますます、快楽の園のずば抜けた傑作ぶりが印象づけられた。

 ボッスその人の伝記事実や依頼者=注文者の問題、さらにボッスは複数いたのか、とかいう疑問など、ボッスには謎が多い。

 まず、快楽の園の画家=ボッスであり、これを描いた画家をすべての出発点にすべきだと確信している。仮に「快楽の園」を描いた画家が、従来考えられていたセントヘンボッスに住んでいた ヒエロニムス  ヴァン  アーケンでなかったとしてもそれでもよい。そこから始めないとなんのために考察しておるのか意味がなくなってしまう。

 他にボッスという画家が同時代にいたとしても、また他のボッス(伝承)作品が、他の画家 時代 地域のものであったとしても、それは関係がないことである。

 この「快楽の園」、2005年以来、再び観た。今回最大の発見は、ボッスの静物画家として、物質の手触りまで描き出す腕である。最初に気づいたのは、「地獄」の半ば右端の大きな茶色の焼き物の壷の感触 質感描写である。楽器・ナイフなど中央画面では下方の大きなムール貝の光沢のある美しさ、ネズミと対話するガラス管の光沢などが特にめだつ。
 左翼の「創造」では左上の馬や一角獣などの動物が多数水辺で水を飲んでいるところが特に生き生きしている。

 また、こみあった会場だったので、双眼鏡で上部をみる機会が多かったが、中央画面の上部の高揚した飛翔感を描き出す線が異常なくらいに張りつめていて、素晴らしい。また、右翼:地獄の画面上部の非常に細かい描写だが、池の中でおぼれる多数の人々、その右で、サーチライトのような不思議な禍々しい青白い光を放つ門に多数の人々が列をつくって吸い込まれているところが、特に戦慄的である。これに比べたら、下部右の豚に言い寄られる男などはコミカルで愛らしいぐらいだ。この豚の皮膚の感じもよく描けているようだ。

  背後のグリザイユは、「快楽の園」が洪水で全滅しているところなのか、それとも水の中からでてきているところなのかは議論があるが、私は後者の「創造」ではないかz?と思っている。ただ、虹をノアの虹だとし、中央画面をノア以前と解釈すれば逆になる。

 「聖アントニウスの誘惑」は模写や部分模写、模写の組み合わせなどが多く残っている作品だが、やはりこのリスボンの作品が最上である。サイズがやや小さいので、快楽の園ほど圧倒的な感じはない。ただ、奇妙なのはその上部の飛翔感、高揚感には、不思議と共通するところがある。中央画面背景の燃え上がる村の上で、梯子をもって飛んでいる悪魔の描写は高名なものであるが、とても素晴らしい。

  また、魚の肌のヌメヌメとした描写はこちらのほうが快楽の園よりずっと優れていて17世紀の静物画(クララ ペーテルスなど)を連想した。全体として、濃いベルベットのような緑が美しい作品で、この感触は比類がない。有名な中央場面は確かに美しいが、衝撃的というより入念な作品である。工芸品的といってもいい。背後のグリザイユは、それほどよいとは思えず、ブリュッセルの模写とあまり変わらないように感じた。

 そういう意味で、「入念で工芸品的」なのが、プラドの「三賢王の礼拝」である。2005年にプラドでみたときは、なんかすすけた貧しい印象の悪い作品だったが、今回は全くみなおしてしまった。照明などでこれほど違ってみえるものだろうか? と思ったものだ。

  みどころが中央部下部に集中しているので混んだ状態では鑑賞しにくい。結局丁寧にみたのは6月3日午前のみ。裏のグリザイユの聖グレゴリウスのミサは、ボッスのグリザイユの中では優れていて、特にキリストのまわりの天使がよい。
 今回初見だったヴェネチアの 聖女 殉教祭壇画は、修復のせいか、なかなかきれいで、昔の図版では三白眼であぶない視線にみえた聖女もふっくらとした円満な顔になっていた。この辺 どうなのかな?
 全体に構図がバランスが悪い感じのするものであって、大きな周囲の切り取りなどがあったのかもしれない。
 同じヴェネチアの4つ組「上昇」「楽園」「煉獄」「墜落」は、ボイマンスでも観賞したが、このたびの修復のせいか前より綺麗にみえる。「上昇」が一番、状態がよいようだ、次が楽園、他2点は痛みが甚だしいが、「墜落」画面は相当迫力があるようにみえる。下絵を赤外線ゲフラクトグラフィーでみたいところだ。

 上記の傑作群に比べれば「乾草車」はどうということもない、これは2005年にプラドでみたときもそう思ったし、今回エスコリアルのものをみたあとでみても同じ感想だ。新出のネルソンの小品は魚の描写が拙くあまり気に入らなかった。緑の感じもリスボンのとは微妙に違う、むしろエール大学のものに近い。ひょっとしたらアメリカで、昔 修復したときどちらも手をいれすぎたのかもしれない。
ボイマンスの「放浪者」は、再会だが、やはり優れている。
ベルリンの「パトモスのヨハネ」は表面の荒れがあまりに痛々しい。連れとされるラザルガルディアーノの「荒野の洗礼者ヨハネ」が状態がよく樹林が輝くように美しいのとは対照的である。このベルリン「パトモスのヨハネ」の裏側のグリザイユは細密画ながら優秀なものだ。同じ連れのゲントの「聖ヒエロニムス」は、まあまあの表面状態である。

付随資料として、
 快楽の園」の依頼者かもしれない、ナッサウ伯爵 エンゲルベール2世の時祷書(オックスフォード) が展示されていた。挿絵に「快楽の園」と共通する動物寓意画がある。この時祷書のレプリカを私は昔からもっていたので今回実物を観賞できてうれしい。 ボッス「地獄」描写の種本といわれるタンドルスのヴィジョンの装飾写本が米国のポール=ゲッティ美術館から来ていた。実物をみれてうれしかったが、芸術作品としての質はかなり劣るものである。複製を買わなくてよかった。



posted by 山科玲児 at 06:53| Comment(2) | 日記