2016年06月21日

ボス展のカタログを読む

Bosch Prado 2016.JPG

 ボス展の英文カタログに帰国以来親しんでいるが、論説だけで150pもあるA4より少し大きい大冊で、英文であることもあり、読破したとは云えない状況だ。

 しかし、少し読んだだけでも、新しい情報を色々えることができた。俯瞰的にボスの情報を得たのは2001年のロッテルダム ボイマンス美術館におけるボス展のカタログ+研究論文集 以来であるから、結構ブランクがあったということだろう。

 最初に収穫があった点は、プラドの三賢王礼拝の祭壇画 の寄進者があきらかになり、しかも年代が1490年代前半らしいことである。これで、乾草車などとの関係がますますわからなくなってしまった。ただし、某教授がいっている「収税請負人、収税吏」というのは誤り。大物の織物商でアントワープ市の財務担当を1期やっている人(これは収税吏とはいえないだろう。)。

 次に、「快楽の園」の下書きが赤外線レフレクトグラフィーで明示されたのだが、驚くほど粗略なもので、こういう下書きから、あの精巧で魅惑的な画面が描けるのかと不審に思ったぐらいである。ブリューゲルの下書きとも、ロヒールの下書きとも全く違う。別の伝統を感じた。

 次に、1498年にサラゴッサで亡くなってトレドのサンイザベルに埋葬された  アラゴン王女イサベルの遺産にボスの絵が何点も入っていたという古文書の紹介があった。ボスの活動の最盛期に、 既にスペインでは王族貴顕の愛好者がいたのだ。  アルバ公のネーデルランド征服とフェリペ2世の愛好によってスペインに流入したのではなく、もっと前から関係が深かったのだ。

 次に、ウイーンの最後の審判 の 外側の聖人が 聖バーボではなく、聖ヒッポリートであり、注文主はブルゴーニュ宮廷人 ヒッポリート ド  ベルソス Hippoilytes  de Berthoz (-1503) その祈願者の像が中央画面の左下にあって塗りつぶされていること、外側の紋章盾の空白も塗りつぶされていて、その紋章がその人であること、がX線でわかり、2004年に指摘されていること
  このHippoilytes  de Berthozの息子は1505年に、ハプスブルクのフィリップ美公にボスの聖アントニウスの誘惑を売っている記録(312リーブル) もある。ひょっとしたら、これがリスボンの絵かもしれない。

  リスボンの聖アントニウスの誘惑 は19世紀後半(1870年代)にスペインから入ったもので、もともとリスボンにあったものではないらしいこと、、

  取り急ぎ、2,3書いておくが、これらだけでも従来の本を書き換えないといけないような話題であると思う。


posted by 山科玲児 at 07:49| Comment(0) | 日記