2017年01月17日

丁敬の肖像



2012年10月22日
清代学者像伝 の弊害
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/59426360.html

で、肖像画が本人と似てないという問題を提起した。
 そりゃ明時代以前の肖像画じゃ本人をみたことがある画家が描いた肖像の模写の更に模写でさえ少ない。みんな同じような顔になってしまっていて取り違えがあってもおかしくないぐらいだ。日本でも国宝の神護寺の肖像画について議論があった。 北宋時代まで遡ると皇帝や皇族の顔などかろうして残っているぐらい、それ以前では、よほどの偶然でないと顔が残ることは難しい。

 しかし、比較的近い清代をあつかうこの清代学者像伝はひどい、、と思っていたら、野本白雲が、82年前、「書芸」昭和10年1月号に
「肖像を集めた書物には五百名賢図伝、呉郡名賢図伝、清代学者像伝、晩笑堂画伝などがあるが、これらからはとらぬことにした。それはこれらの画がすべてというわけでもないが、その題名を除いては欧陽詢も虞世南も殆ど差がなく、同一の様式で描いてあって據とするに足りないからである。」

  82年前から、気がついていたんだなあ。。それなのに未だにそういう肖像を使って恥じない学者連中の多いことといったら。。 まあ肖像がない場合はやむをえないことがあるけれどね。 それに根拠はないけれども何百年も使われた肖像なら後世に対する影響というか集団に共有されたイメージという意味では使う意味はある。例えば陶淵明像なんかがそうかな。 日本なら三十六歌仙像なんかもそうだろう。

 大きなこといって、お前はなにをしている、、といわれるのもなんだので、さっそく実践した。

清時代の篆刻家書画家であった

の肖像を生前あった可能性のある羅聘作のもの
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ding_Gin_by_Luo_Ping.jpg
に変えた。 画全体ではなく顔を中心にトリミングした。


  羅聘は金農に1757年に弟子入りしていて(REF,羅聘年譜)、金農は丁敬と友人だったので、羅聘も丁敬と面識があった可能性が非常に高い。まさに「生前の姿を知った画家による肖像」である。

とは別人だ。

REF. 揚州八怪年譜 下 、江蘇美術出版社、1993

REF 書芸、昭和10年1月号、平凡社、東京


posted by 山科玲児 at 08:59| Comment(0) | 日記

2017年01月16日

民主制アテナイの良識

に追加したが、このエピソードはあまりに興味深いので、もう少し話してみる。

ちょっと、再録する。

民主制のアテナイの時代の逸話をプルタルコス 対比列伝からひいてみよう。
>「土と水」(これは国土を意味する)を要求するためにペルシア大王から遣わされた一行の中にいた、二ヶ国語を話せる男に対して、テミストクレスのとった処置も称賛を博している。通訳をつとめるこの男を、夷狄(バルバロイ)の命令を伝えるのにギリシアの言葉をもってしたのは失敬千万だというわけで、引っ捕らえた上、決議によって処刑させたのである。

  思わず、ハア?である。降伏勧告にきた使者を処刑するというのは、日本も元寇のときやっているから、古代ではおかしなことではないが、その理由が「外国人が図々しくもギリシャ語を使って降伏勧告をした」ということで、しかもそれをギリシャ人たちが「賞賛した」。。

 現在なら、こんなことをいったテミストクレスは「頭がおかしい」とされて解任されるだろう。このような強烈なギリシャ文化至上主義の上に、アテナイの民主制が動いていたのである。

【追加】しかもテミストクレスは、その後アテナイを民主主義によって(陶片追放)追放され、なんとペルシャに亡命した。従って、この法外な排他主義的な判断は、当時のアテナイ有権者の「良識」「常識」であったことがわかる。

テミストクレスは、すぐペルシャにいったわけではなく、ギリシャの他都市にいったがどうも折り合いが悪く、最終的にペルシャ宮廷で厚遇された。ただ、アテナイを攻めるように命令されて毒を飲んで自殺。

 そうはいっても、この生涯から考えてテミストクレス自身はそれほど排外的な人間ではなかったと思う。そうであればペルシャにはいかなかっただろう。辺境やイタリアの植民都市や、マケドニアなどいけるところは色々あっただろう。 有能な政治家・将軍であったのは確かなのでリアリスト プラグマティックな人だったのだろう。あの言葉はたぶんアテナイの民衆にうけるためのCM宣伝文句だったと考えざるを得ない。
 そう考えると、民主政治のアテナイの有権者たちの「良識」「常識」がどこまで現在と違うかを実感できる。

 このエピソードは、ルーマニア出身のエッセイスト哲学者E.M.シオランが「一文明の頂点にあった民族がどこまで傲慢で自信に満ちたものになりうるか」という例としてあげていたので、よく憶えている。


posted by 山科玲児 at 07:32| Comment(0) | 日記

80年前のマスコミ

浮世絵二百五十年  front.JPG

   戦前、昭和9年の大規模な「肉筆浮世絵」贋作事件、「春峯庵事件」のとき、当時のマスコミの中心である新聞の記事は、
  「昨日は『浮世絵界空前の大発見』の為に大讃辞を呈し、今は其のインチキを報道して、何等の責任を感ずることなく、又、其の不明を天下に謝することもない新聞紙の態度は、固より沙汰の限りである。」      (REF. 高橋誠一郎「浮世絵二百五十年」、昭和13年限定500部、イメージ)

 これやったのは、東京朝日新聞でした。

 新聞は、80年変わらないんだな。そう思ったので昨日の記事は少し書き直しました。

  新聞というのは、こういうもので、戦前から同じ事をやっています。 徒に信頼しないようにしなければいけないということなんでしょうね。

 ただ、今回は、朝日新聞はわりとまともだったな。


 
posted by 山科玲児 at 05:54| Comment(0) | 日記

2017年01月15日

曜変天目とマスコミ


 今回、あえて曜変天目のことを言ったのは、マスコミの誤報のせいである。テレビ東京の鑑定番組「開運!なんでも鑑定団」で、どんな鑑定がでようが、全国紙が無視していたら何も起こらなかったし、当方も何もいうことはなかった。この番組では、過去には、柿右衛門様式の壺に5億円とかいう高額鑑定もでているが当方は全く知らなかった。また、関心もなかった。

   開運!なんでも鑑定団」で、どんな鑑定がでようが、美術館博物館の研究者たちは「あれは、テレビのショーで関係ない」と無視していた。古美術商たちは「どうせ、テレビでの話。」「利用できるときは利用していればいい」「中島誠之助はテレビタレントに過ぎない、古伊万里しか知らない人」 と、軽蔑・嘲笑していれば良かった。

   ところが、一応、有名な大新聞が報道すればそれは別だ。まず美術館などの特別展の後援には、たいてい大手新聞社やNHK、TV局が参与してるでしょ。もし大手新聞社がそんなムチャクチャになったらまともな特別展ができなくなる。学芸員は、「中島誠之助の眼」とかいう特別展をやらされる羽目になったらどうしよう、と想像してパニックになることになる。

 また、 古美術商たちも顧客たちが新聞に惑わされて色々いわれたり、鑑定団で高く評価されたものを持ち込まれて困ったりすることになるから、これも困る。

 まともに曜変天目の再現を研究している窯元の人なんかは、もう怒髪天をつく状態でしょ。 我々が長年努力して近づこうとしている高峰が、その辺の丘と同じ、といわれているようなものだからね。

日経新聞

産経新聞
の罪は重い。

たぶん、もとは、

共同通信
鑑定番組で新たな曜変天目茶碗か テレ東の収録で発見 - 共同通信 47NEWS
https://this.kiji.is/183891214455850491?c=110564226228225532
 のどうしようもないニュースを転載したんでしょ。

    しかも、テレビ番組放映前に事前リークして煽って 視聴率を一気に上げようと企んだ。黒いなあテレビ東京は::
  http://www.sankei.com/life/news/161220/lif1612200022-n1.html

  まあ、結果として13%以上の視聴率を稼いだので、テレビ東京としては万歳万歳なんじゃないの。
  今後もテレビ局は共同通信社と組んで、この手を使うかもしれないなあ。


posted by 山科玲児 at 10:50| Comment(0) | 日記

赤人集の風景画

赤人集.jpg



の赤人集の画像を上記イメージ(上記イメージは縮小版)へ変更した。

  やはり、この鳥瞰的な松原の風景画が、一番有名なので、これにしたかったのだが、ちゃんとしたオリジナルから撮った大判カラー図版をみつけることができなかったので、これを採用できず、別のものを採用していた。まあ、こちら
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:36poets_collection_AKAHITO.JPG
も、実物の葉っぱを押しつけた跡もある面白いものだが、やはり代表的なほうがいいしね。

木下政雄 『日本の美術168 三十六人家集』 至文堂、 1980年5月
にもカラー写真があったのだが、見開きだったので、ページの合間が見えなかったので使えなかった。
posted by 山科玲児 at 08:16| Comment(0) | 日記

2017年01月14日

曜変天目の写真著作権

曜変天目 藤田A.JPG


 最近話題の曜変天目だが、こういう立体物の場合は写真著作権があるので、なかなかネットにはあげにくい。

で、
この動画
偽物?なんでも鑑定団 曜変天目茶碗 長江惣吉 
 で 長江氏が、
鑑定団の「いわゆる曜変天目茶碗」も国宝三点の写真もだせなかったのはそのせいである。

  こういう、無法な攻撃が予想される動画では著作権違反という攻撃を避けるためにはやむを得ない処置だったのだろう。


 一方、藤田美術館の曜変天目の著作権が消滅したカラー写真があったので、Wikimediaに2012年12月に投稿してある。イメージは部分::
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:YOUHEN_TENMOKU_bowl_FUJITA.JPG
 これは、なかなか深遠な感じを与える天目釉で、私としては、静嘉堂文庫美術館の稲葉天目より好きである。
 この写真は、1954年11月30日に刊行された  東洋陶磁 宋磁 に掲載されたものである。1956年12月31日以前に撮影された写真は、撮影者が生きていても1970年1月1日以降は著作権が消滅している。従ってこの写真には著作権はない。
 稲葉天目にもこういう著作権が消滅したカラー写真があれば良いのだが、残念ながら、まだ見つけていない。あるいはないのかもしれない。
 モノクロの粗雑な図版ならあるので、一応あげておく。これは1952年刊行の写真である。

静嘉堂のサイト イメージはこちら::

曜変天目  静嘉堂  稲葉.JPG


posted by 山科玲児 at 10:13| Comment(0) | 日記

民主主義と多文化共生【追加】

最近、歴史を顧みてみると、
民主主義と多文化共生というのは、相容れないものではないか? もし、多文化共生を選ぶなら軍事独裁制の帝国のほうがよいのでは? という漠然とした考えをもっている。国際金融のトリレンマではないが、併用できない制度、相性の悪いものというのはあるのではなかろうか。

 まず、欧米の歴史上、民主主義のルーツとされる、民主制のアテナイの時代の逸話をプルタルコス 対比列伝からひいてみよう。

>「土と水」(これは国土を意味する)を要求するためにペルシア大王から遣わされた一行の中にいた、二ヶ国語を話せる男に対して、テミストクレスのとった処置も称賛を博している。通訳をつとめるこの男を、夷狄(バルバロイ)の命令を伝えるのにギリシアの言葉をもってしたのは失敬千万だというわけで、引っ捕らえた上、決議によって処刑させたのである。

  思わず、ハア?である。降伏勧告にきた使者を処刑するというのは、日本も元寇のときやっているから、古代ではおかしなことではないが、その理由が「外国人が図々しくもギリシャ語を使って降伏勧告をした」ということで、しかもそれをギリシャ人たちが「賞賛した」。。

 現在なら、こんなことをいったテミストクレスは「頭がおかしい」とされて解任されるだろう。このような強烈なギリシャ文化至上主義の上に、アテナイの民主制が動いていたのである。
【追加】しかもテミストクレスは、その後アテナイを民主主義によって(陶片追放)追放され、なんとペルシャに亡命した。従って、この法外な排他主義的な判断は、当時のアテナイ有権者の「良識」「常識」であったことがわかる。


 一方、オスマントルコ。 これはイスラムではあるがトルコ族の軍事政権 官僚制帝国で、内部は多民族多宗教併存の帝国だった。少なくともキリスト教徒だからといって富豪になれないわけではない。 当時の西欧でムスリムがまともに生活できたかどうかを考えれば、どちらが多文化共生であったかどうかは自明である。皇帝の親衛隊イエニチェリは外国人の奴隷の子供から養成するということを含めて、なかなか変わった合理的なシステムのある帝国だが、いうまでもなく民主主義の正反対である。

 近年では、チトーのユーゴスラヴィアがある。これまた多民族多宗教の19世紀からの危険地帯「バルカンの火薬庫」をチトーの政治力と軍事力と独裁でとにかく一応平和?に保っていた。チトー死後、あの悲惨なユーゴスラビア内戦の殺し合いが始まったのはまごうことない事実である。

 ローマが「共和制」から「帝政」になった原因の一つは、征服の結果としてこの「多民族多宗教」を抱え込むことが一因だったのではないか?とも考えている。

  この仮説「民主主義と多文化共生は相性が悪い」は、確信があるわけではないので、他の人の具体的な例・根拠を伴った議論が聞きたい気もしている。
 ただし、抽象的な議論は当方としては無用なので、削除させてもらいます。悪しからずご了承ください。



 
posted by 山科玲児 at 08:36| Comment(3) | 日記

2017年01月13日

菩薩処胎経と明治の書家たち

菩薩処胎経.jpg菩薩処胎経 detail.JPG



  昨日触れた、養[廬鳥]徹定の収集品で最も有名なものが菩薩処胎経(国宝 西魏大統16年 ACE550  イメージ)という写経である。

明治の書家たちと実際に面識があった中村不折が 昭和17年に 国宝  菩薩処胎経について、

「これは我国で第一の古写経として一六、鳴鶴等は知恩院に詣でてこれを見ることを得、これに対してあたかも神仏に仕うる如くであった、故にいやしくも六朝の書法を研究せんとするものは必ずや所胎経を拝さなければ、その妙を悟ることはできぬといった。また所胎経を拝すれば已に身は浄土門に一歩を踏み入れたるものだといふたのである。」Ref1(漢字など多少現代的に変えました。ほんとの原文はREFご参照)
 中村不折翁は、ドナルド=トランプなみに口が悪く風刺がきつい人なので、多少割り引いて読まなければいけないが、当時、いかにこの写経が尊重されていたかがわかる。上にイメージ、部分イメージをおいておいた。
ちなみに、実物は、京都国立博物館の写経展、「古写経-聖なる文字の世界- 2004年10月」で拝観した。 5册のうち2つが展示されていた。
  現在、国宝になっているのは、日本に伝世されていたこと。出土したのではなく、手から手へ人から人へと伝えられたチャイナの南北朝時代写経では最古クラスであること、が理由だろう。

  でもね、今、日下部鳴鶴とか巌谷一六とか、明治の六朝書とかのことを書く人で、この菩薩処胎経のことを論じる人はあまりいない。

  まあ、確かに、これより古くて個性のある出土写経はスタイン、ペリオ、ペテルブルグ、大谷などのコレクションに少なくない。勿論、当時から偽物もどっさりあったとはいえ、例えばもともと個人蒐集である中村不折コレクションの台東区書道博物館でさえ、下イメージのような北魏写経がある。 そういう背景では、この写経がかすんでしまうのはしょうがないのかもしれない。

 ただ、明治前半という時代で日下部鳴鶴とか巌谷一六たちの活動を考えるときは、この「菩薩処胎経」という写経は、外せない要素なのではなかろうか? 例えば、モーツアルトのジングシュピール「魔笛」は、あまり意識されないがエジプトが舞台という設定である。しかしあれをクレオパトラ時代のエジプトの演出でやると、面白いが、かなり変になってしまう。 ナポレオン遠征以前の西欧で考えられていたエジプト イメージ(アタナシウス キルヒャーが考えていたようなもの)で考えないと、モーツアルトがイメージした舞台にはならないだろう。

  ヒストリシティ 歴史性というのはそういうもので、歴史のある時点での誤解、先入観、知識の範囲を想定しながら考えないと理解できないことも多い。そういう誤解や先入観は、21世紀の現在でもあるに決まっているのだが、同時代人である我々にはわからないみえないものでもある。

Ref.1  中村不折、西域出土の写経について、三省堂、書エン、昭和17年九月号 2p-12p


令弧  書道博物館.jpg
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2017年01月12日

過雲楼書画記と日本

過雲楼書画記.JPG


  上海博物館の明清書画の重要な一部分となっているのが、顧文彬(1811-1889)とその息子 顧麟士のコレクションである。また顧文彬旧蔵九成宮醴泉銘宋拓本は三井文庫で昔みたことがある。顧文彬のコレクション目録 過雲楼書画記はなかなか主張のある本として清時代の書画記としては評価されている。その過雲楼書画記をイメージの江蘇古籍出版社(1990)活字本で読んでいたとき、ちょっと変わった事項をみつけた。

  冒頭に近い巻一の「唐写続華厳経疏 巻」というのがあって、これは日本から最近逆輸入したものだというのだ。しかも、知恩院七五世で古写経の収集で有名な養[廬鳥]徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日(1814年5月4日) - 明治24年(1891年)3月15日)が金し衫に割愛したものだという。この「金し衫」というのはたぶん誤植か間違いで、蘇州生まれで上海で活躍した画家書家「金嘉穂」であろう。「金嘉穂」は日本に来ていて養[廬鳥]徹定と明治4年に長崎で筆談した記録すらある。
   養[廬鳥]徹定と金嘉穂の明治四年、長崎における筆談記録  
    町  泉寿郎:二松学舎のサイトに掲載された論文
    http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/04kanbun-107machi.pdf

 顧文彬も蘇州の蒐集家であり、金嘉穂も家族は蘇州にいて上海に出稼ぎにきていた人だから交流があったということではなかろうか。

明治3年に清国公使の随員として来日し、廃仏毀釈直後の日本で古書古墨跡を集めまくった楊守敬も、
>日本の気候は、もとより我が国の江南ほど腐りやすくはないが、河北ほど虫食いが少ないわけでもない。何で唐人の書籍がこんなに計り知れないほど残っているのか
とさえ言って驚嘆していた。
 この物持ちの良い日本から、廃仏毀釈のあと文化財を持ち出した人は楊守敬や西洋人ばかりではないということである。なお、辛亥革命のとき楊守敬の蔵書は南昌にあった。蔵書の破壊散逸を救ったのは当時の革命のリーダーに担ぎ出された 黎元こうの幕僚の日本軍人 寺西氏であったのは不思議な縁である。

 養[廬鳥]徹定と明治期の日下部鳴鶴、巌谷一六の書道の新風との間の関係については、今は忘れられているが、稿を改める。


posted by 山科玲児 at 06:40| Comment(0) | 日記

2017年01月11日

洛神十三行と丙子剣


 wikimediaに
 の2種を投稿しました。

 この洛神十三行 台東区書道博物館蔵なんですが、なかなか良いものですよ。
 原石は今、北京の博物館にあるのですがすり切れて摩滅しているせいか、20世紀にみた新拓はいずれも魅力に乏しいものでした。
 ちなみに、原石は端渓石なんだそうです。

 丙子椒林剣ですが、こういう古代の鋼鉄剣てのは錆びの塊になりがちですので、なかなか保存の良いものはないんですよね。日本は正倉院を初めたくさん保存されてますね。三種の神器に剣がある国らしいな。
 もっとも、こういう剣は研ぎ磨きを繰り返して保存されてきたので、少し小さくなっている場合が多いと思います。

posted by 山科玲児 at 09:39| Comment(0) | 日記