2017年01月12日

過雲楼書画記と日本

過雲楼書画記.JPG


  上海博物館の明清書画の重要な一部分となっているのが、顧文彬(1811-1889)とその息子 顧麟士のコレクションである。また顧文彬旧蔵九成宮醴泉銘宋拓本は三井文庫で昔みたことがある。顧文彬のコレクション目録 過雲楼書画記はなかなか主張のある本として清時代の書画記としては評価されている。その過雲楼書画記をイメージの江蘇古籍出版社(1990)活字本で読んでいたとき、ちょっと変わった事項をみつけた。

  冒頭に近い巻一の「唐写続華厳経疏 巻」というのがあって、これは日本から最近逆輸入したものだというのだ。しかも、知恩院七五世で古写経の収集で有名な養[廬鳥]徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日(1814年5月4日) - 明治24年(1891年)3月15日)が金し衫に割愛したものだという。この「金し衫」というのはたぶん誤植か間違いで、蘇州生まれで上海で活躍した画家書家「金嘉穂」であろう。「金嘉穂」は日本に来ていて養[廬鳥]徹定と明治4年に長崎で筆談した記録すらある。
   養[廬鳥]徹定と金嘉穂の明治四年、長崎における筆談記録  
    町  泉寿郎:二松学舎のサイトに掲載された論文
    http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/04kanbun-107machi.pdf

 顧文彬も蘇州の蒐集家であり、金嘉穂も家族は蘇州にいて上海に出稼ぎにきていた人だから交流があったということではなかろうか。

明治3年に清国公使の随員として来日し、廃仏毀釈直後の日本で古書古墨跡を集めまくった楊守敬も、
>日本の気候は、もとより我が国の江南ほど腐りやすくはないが、河北ほど虫食いが少ないわけでもない。何で唐人の書籍がこんなに計り知れないほど残っているのか
とさえ言って驚嘆していた。
 この物持ちの良い日本から、廃仏毀釈のあと文化財を持ち出した人は楊守敬や西洋人ばかりではないということである。なお、辛亥革命のとき楊守敬の蔵書は南昌にあった。蔵書の破壊散逸を救ったのは当時の革命のリーダーに担ぎ出された 黎元こうの幕僚の日本軍人 寺西氏であったのは不思議な縁である。

 養[廬鳥]徹定と明治期の日下部鳴鶴、巌谷一六の書道の新風との間の関係については、今は忘れられているが、稿を改める。


posted by 山科玲児 at 06:40| Comment(0) | 日記