2017年01月13日

菩薩処胎経と明治の書家たち

菩薩処胎経.jpg菩薩処胎経 detail.JPG



  昨日触れた、養[廬鳥]徹定の収集品で最も有名なものが菩薩処胎経(国宝 西魏大統16年 ACE550  イメージ)という写経である。

明治の書家たちと実際に面識があった中村不折が 昭和17年に 国宝  菩薩処胎経について、

「これは我国で第一の古写経として一六、鳴鶴等は知恩院に詣でてこれを見ることを得、これに対してあたかも神仏に仕うる如くであった、故にいやしくも六朝の書法を研究せんとするものは必ずや所胎経を拝さなければ、その妙を悟ることはできぬといった。また所胎経を拝すれば已に身は浄土門に一歩を踏み入れたるものだといふたのである。」Ref1(漢字など多少現代的に変えました。ほんとの原文はREFご参照)
 中村不折翁は、ドナルド=トランプなみに口が悪く風刺がきつい人なので、多少割り引いて読まなければいけないが、当時、いかにこの写経が尊重されていたかがわかる。上にイメージ、部分イメージをおいておいた。
ちなみに、実物は、京都国立博物館の写経展、「古写経-聖なる文字の世界- 2004年10月」で拝観した。 5册のうち2つが展示されていた。
  現在、国宝になっているのは、日本に伝世されていたこと。出土したのではなく、手から手へ人から人へと伝えられたチャイナの南北朝時代写経では最古クラスであること、が理由だろう。

  でもね、今、日下部鳴鶴とか巌谷一六とか、明治の六朝書とかのことを書く人で、この菩薩処胎経のことを論じる人はあまりいない。

  まあ、確かに、これより古くて個性のある出土写経はスタイン、ペリオ、ペテルブルグ、大谷などのコレクションに少なくない。勿論、当時から偽物もどっさりあったとはいえ、例えばもともと個人蒐集である中村不折コレクションの台東区書道博物館でさえ、下イメージのような北魏写経がある。 そういう背景では、この写経がかすんでしまうのはしょうがないのかもしれない。

 ただ、明治前半という時代で日下部鳴鶴とか巌谷一六たちの活動を考えるときは、この「菩薩処胎経」という写経は、外せない要素なのではなかろうか? 例えば、モーツアルトのジングシュピール「魔笛」は、あまり意識されないがエジプトが舞台という設定である。しかしあれをクレオパトラ時代のエジプトの演出でやると、面白いが、かなり変になってしまう。 ナポレオン遠征以前の西欧で考えられていたエジプト イメージ(アタナシウス キルヒャーが考えていたようなもの)で考えないと、モーツアルトがイメージした舞台にはならないだろう。

  ヒストリシティ 歴史性というのはそういうもので、歴史のある時点での誤解、先入観、知識の範囲を想定しながら考えないと理解できないことも多い。そういう誤解や先入観は、21世紀の現在でもあるに決まっているのだが、同時代人である我々にはわからないみえないものでもある。

Ref.1  中村不折、西域出土の写経について、三省堂、書エン、昭和17年九月号 2p-12p


令弧  書道博物館.jpg
posted by 山科玲児 at 08:17| Comment(0) | 日記