2018年03月31日

王羲之と日本の書


太宰府の九州国立博物館:特別展『王羲之と日本の書』
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s50.html
に、またいきました。
鶴下絵三十六歌仙和歌巻が最初から最後まで全部  公開
posted by 山科玲児 at 19:46| Comment(0) | 日記

2018年03月30日

中国古代史研究の最前線



古い知人の佐藤氏が、このような本を書いた


amazonの中国史部門では一位だそうで、喜ばしいことだ。

ここで、試し読みできるようです。此の本の編集者  平林氏のとこのサイト


「出土文献」を前に出しているので、竹簡で発見された古典や、敦煌・西域写本の話かと思ったら、

甲骨文・金文も含めて、秦時代までぐらいの、広い範囲の話でした。 

なお、「星海社新書」なのに、出版社「講談社」となっているが、、、
出版社「星海社」、発売元「講談社」ということらしい。




posted by 山科玲児 at 11:53| Comment(0) | 日記

装飾料紙と絵画

徽宗  池.jpg



宋代花箋展 図録で、一番違和感があるのが、装飾料紙に描かれた水墨画である。
http://www.npm.gov.tw/dm2001/b/exhibition/creature/K2A000986N_basic.htm

 花とか野菜とかいうような大きな絵画的な模様ではなく、一面のワラビ模様であるから、それほど気にならないとはいえ、こういう料紙に描く意味があったのか?どういう意図なんだろうと怪しみたくなる。
  これは 徽宗皇帝の絵ということになっていて、南宋時代の跋までついているが、果たしてどうだろうか?ただこういう豪華な紙に描いたということで上流社会宮廷関係のものだという状況証拠にはなるだろう。
  同様な違和感は、絹に描いた絵で、絹が錦であって、色模様ではないが模様のある絹である場合にも感じる。たとえば、やはり伝徽宗皇帝の文會圖
https://reijibook.exblog.jp/15345633/
がそうであるし、
黄公望の 九珠峰翠図もそうである。
http://painting.npm.gov.tw/Painting_Page.aspx?dep=P&PaintingId=1058
  一方、装飾料紙に書を書く場合は、あまり違和感はない。むしろ作品の価値が増したような感じすらする。

  蘇軾の書で、書自体にはかなり疑問をもちたくなるものでも、こういう料紙ならひょっといたら良いのかも?とみなおしたくなる。
  日本でも、俵屋宗達工房の絵の上に 光悦などの書が書いてあるものはなかなか良いものだ。
  ということからすると、私自身としては料紙の模様は「絵画」に分類しているのかもしれない。「絵画」に「絵画」を重ねるのは煩わしいが、「絵画」に書を重ねるのは良いということである。


posted by 山科玲児 at 09:09| Comment(0) | 日記

2018年03月29日

燃やされる書物・救われる書物

Casa albert Madrid 2016.JPG

  上のイメージの奧の1Fが赤く塗ってある建物が、スペイン マドリードのセルバンテスが住んでいた建物だそうだ。1Fはカーサ・アルベルトというバルである。
 この通りは、もとは書籍商街だったらしいが、今はあまり本屋がない。

セルバンテスのドンキホーテを繙いてみる。
セルバンテスは第9章で「道ばたに散らかっている紙切れでさえ拾ってみるほど、ものを読むことが好きな」読書家と、自称していた。そのドンキホーテを読み始めると、読書家愛書家らしいペダンチックな話が多くておもしろい。
 どちらかというと、アラビアンナイトの枠物語のようで、脱線が多い。一直線に物語を読み結末を早く知りたいというような性急な読者にはあまりむいてない。1605年に出版されたドンキホーテがベストセラーになって偽作の続編まで作られ、それに対抗してセルバンテス自身が真正の「ドンキホーテ 後編」を作ったというのは、当時の読者は相当現在とは本の趣味が違っていたのだな、、と思うところがある。
 第9章で偽装されているように、このドン・キホーテ・デ・ラマンチャの物語は、アラビアの歴史家  シデ・ハメーテ・ベネンヘーリがアラビア語で書いた写本を、無名のモール人が翻訳したものをセルバンテスが編集して出版しているという虚構になっている。
  なんか、こういうのは、ニコラス・メイヤーが書いた「シャーロックホームズの素敵な冒険」のシャーロッキアン的設定「ワトソン博士が養老院で口述筆記した原稿が発見され、それをメイヤーが編集して出版」というのに類似している。

  燃やされる書物::
  第6章で、ドンキホーテの親友の司祭と外科医兼床屋 がドンキホーテの書斎で狂気のもとになった書物を焼いてしまおうと、本を次から次へと取り出して書評をして選別する場面がある。まず、当時流行った騎士道物語が次々にあげられ、さらに詩集や、セルバンテス自身の本まで批評される、結局、家政婦の手でほとんどは裏庭で燃やされることになるのだが、、なんというか無名草子のようなのりである。
  しかし、家政婦や姪によって、蔵書が燃やされるというのは、現在日本でもざらにありそうな気がしている。
  
  救われる書物::
  ドンキホーテの第9章で、作者セルバンテスが、トレドのアルカナ街で、少年が絹商人に売ろうとしたアラビア語のコデックス写本と紙束写本を、半レアルで買って、トレドの街頭でつかまえたモール人に翻訳させるという話がでている。

  マリア メノカルの本

の記述では、いかにも悽愴悲壮な感じが漂っているが、オリジナルのドンキホーテでは、全く逆のあっけらかんとした感じである。なんで、トレドの街頭で都合良くアラビア語が読めるモール人をすぐつかまえることができるのか、、というのがご都合主義ストーリーそのものではあるが、全体に明るく喜劇的である。

   実はドンキホーテの翻訳本を読み始めたのは、このメノカルの本の「ラマンチャの何処かで 1605年」という章に、トレドの街頭で写本を買う場面の引用にひきつけられて、読み始めた。だが、雰囲気は全く違っていた。
  このメノカルの本は、相当、偏見に満ちていて、中世スペインの人々が皆子供のころからアラビア語をしゃべっていたような印象すらうける。 中世スペインのアラビア語は知識人の言葉で、18世紀以前の西欧のラテン語のような役割だろう。例えば殆どイスラム化しているイランだって、現在でも言葉はペルシャ語で、アラビア語は宗教の言葉ですね。イスラム支配のスペインの後ウマイヤ朝でも、上流階級以外でアラビア語が母国語になるはずないでしょう。それなら、スペイン語が現在生き残っているはずがない。エジプトみたいにアラビア語が母国語になってるはず。まあ、コルドバは当時、世界有数の大都市、長安・バクダートに並ぶ大都市で繁栄し、文化の粋を誇っていたことは確か。野蛮なフランク人の国(現在のフランスとかドイツとかイギリス)とは天地ほども違っていたでしょう。文化文明芸術科学は、コルドバ⇒西欧へと流れたのは確かです。 でも、此の本では、トルバドールの起源についてもアラブ説という現在では古くさい説をとっている。そこらじゅうにコンベルソやモリスコの鬱屈・偽装・隠蔽・差別を無理矢理発見するという見方で書かれていて、どうみてもおかしい。
 これじゃ、出汁にされたセルバンテスが気の毒だ。

  メノカルはペンシルバニア大学卒業のアメリカ人らしいが、アメリカ人思想家にときにみられる偏狭なイデオロギーで中世の猥雑でリアルな現実を解釈しているので、取り上げた資料はおもしろいとはいえ、その解釈は感心しない。このテーマはスペイン人研究者、あるいはむしろ日本人研究者やインド人研究者によるもっとまともな論がほしいものである。
  下イメージはトレドの、もとシナゴークであった、サンタマリア ビアンカ教会(今は遺跡状態ですが、、)の内部
St Maria Blanca Toledo.JPG
posted by 山科玲児 at 07:13| Comment(0) | 日記

2018年03月28日

塗り重ねられた肖像画

Christian_II_Sittow.jpg

  花耀亭様にご教示いただいたワシントンナショナルギャラリーの現在開催中の特別展に

 ミカエル・シトウの特別展がある。

 16世紀の画家で晩年のメムリンクに学んだ人だそうだ。シトウの肖像画にはメムリンクの作品そっくりのものがあり、こういうところが、メムリンク工房での修行の成果なのかもしれない。あるいは、メムリンク作品とされる肖像画のなかにはシトウの作品が混じっているかもしれない。
 今回でてるシトウの作品のなかでは、宗教画より肖像画が優れているようだ。聖母子像はちょっと重苦しい。当時の王侯貴族の肖像があり、ロヒールのように王侯たちの肖像を描いた画家なのだろうか?と思う。

 そのなかで、デンマーク王クリスチャン2世の肖像(コペンハーゲン、1515年 イメージ)がある。この王様ウィキの記述によると残忍暴虐強欲勇猛有能で、最後にはデンマークを追放され幽閉されるという、まるで織田信長かシェークスピア劇の主人公のような人物である。そういやハムレットもデンマークが舞台だったな。 いうまでもなく貴族や有力者を大虐殺されたスウェーデンなどでは悪魔のように嫌われた。

 この肖像、ワシントンでX線でみたら、クリスチャン2世の義兄の神聖ローマ皇帝カール1世の肖像を塗りつぶして描いてあるらしい。ワシントンNGでは「画家がパネルを再使用した証拠」とかさらっと書いているが、これは31x21cmというA4程度の小さな板なんだから、宮廷画家がこんな小さな材料に不足したはずはない。どうも、クリスチャンは不仲な王妃イサベルの兄弟:1515年の時点ではまだ即位していなかった義兄:ハプスブルクのカールともあまりなかがよくなかった節があるので、そういう気まぐれでシトウにカールの肖像画を潰して自分の肖像画を描かせたのかもしれない。
 この肖像画を科学分析したコペンハーゲンでの動画がある。
https://vimeo.com/198013244
  科学分析によると、完成してニスまで塗った下層の若い頃のカール5世の肖像画の上に鉛白で人物部分を塗りつぶしその上にクリスチャン2世の肖像を描いている。1515年というのは、下層のニスの上にあるので、果たしてクリスチャン2世肖像の年代といえるかどうかわからないそうだ。また、基底材の木材の伐採年代は1480年ということである。
  下層の肖像画の人物がカール5世であることは金羊毛騎士団ガーター徽章と特徴的な顎、帽子やヘアスタイルでほぼ確実なようだ。
  普通、こういうことがあると贋作とかずっと後の人の制作か?と疑うのだが、このケースは特殊事情というべきかもしれない。

posted by 山科玲児 at 08:48| Comment(0) | 日記

2018年03月27日

内閣人事局は無力

内閣人事局って無力なんだね。

できたあとでも、前川喜平氏が文部次官へ昇進してるでしょ。
どうみても内閣の利害で人事してるんじゃなくて、文部科学省内部の
「慣習」で昇進させているとしか思えない。

内閣人事局って、各省内の人事を追認してるだけじゃないのかな。


posted by 山科玲児 at 08:43| Comment(0) | 日記

ケーヒル先生のサイトがなくなった

2014年04月07日
ケーヒル先生  追悼

で書いたように、2014年に逝去されたJames Cahill先生のサイトが突然なくなってしまった、というよりドメインが消去されてアクセス不能になってしまった。

インターネット情報にはこういう問題があるから、
なんらかの予備というか、アルカイーブが必要だとおもうのだが、、

コンターク コレクションの行方
日本で中国絵画を買う

とか興味深い記事があったのに、残念だ。

ミラーサイトやアルカイーブがあったら、ご教示ください。

posted by 山科玲児 at 08:19| Comment(0) | 日記

2018年03月26日

サラエヴォ  ハガーダーのこと 再

Saraevohagadda  1971 (2).JPG


サラエヴォ  ハガーダー(イメージ)については、
2016年02月26日
サラエヴォ ハガーター
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/174217431.html
及び

古書の来歴 単行本  2010/1/21
ジェラルディン ブルックス   (著),    森嶋 マリ (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4270005629
という小説や、

極めて詩的な史話
 の僅かな記述によって知られているという妙な状態になっている。

極端にいえば、ダヴィンチコードしか、日本語で読めるモナリザの研究書がないような状態だ。


悲惨なユーゴスラヴィア内戦以前の論説なので、筆者が生き延びたかどうかすらあやしいが、、
芸術新潮 1971年12月号
   秘本「ハガーダ」の運命(カラメーメドビッツ)
という貴重な証言がある。
  一応、現在では、博物館の英文サイトの記述が正統ということなんだろう。


posted by 山科玲児 at 08:53| Comment(0) | 日記

2018年03月25日

乙は2じゃないのかな


江山臥遊 東博サイン.jpg

東京国立博物館にある程正揆 江山臥遊図巻
程正揆 江山臥遊図巻
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007876

は、去年も拝見する機会があったが、図録などで解説を読んでいて、どうも納得しかねるところがある。
それは、自題に書いてる数字だ。
イメージにみるように、第?百五十三と書いてある。この?の文字はたぶん「乙」だろうと思う。
そうすると、「第乙百五十三」 これは二百五十三ではあるまいか? 
なぜか解説ではほとんど153と書いてある。「乙」を無視しているのかな?普通「乙」を数字の代わりに使うとすると「二」でしょう??。仮に「153」だったら「一百五十三」「壱百五十三」だろうと思う。「乙」はおかしいだろう? 勿論、ここに補墨加筆 または墨の汚れがあって「一」が「乙」にみえてるだけだったら、それは私の間違いであるが、「乙」の末筆のハネもあるし、間違いはないんじゃないかな??


程正揆は、最初は江山臥遊図巻を百巻制作するつもりで番号をつけていたようだ。
その後、百巻突破してしまったので五百巻目標にしていたようだが、そこまで制作できたのかどうかはわからない。
posted by 山科玲児 at 09:31| Comment(4) | 日記

2018年03月24日

行成と宋代の花箋

本能寺切detail.JPG



のサイトをみて思ったのですが、 藤原行成の本能寺切の料紙装飾(イメージ)にかなり似ていると、感じました。同じ思いの書道史研究家は多いだろうな。行成の年代は北宋の真宗仁宗ごろだから、ほぼ同時代か少し早い時代ですから、結構
同時代で輸出したんだな。
 こういう料紙は奢侈品ですけど、量産される奢侈品で、蘇軾の手紙みたいな唯一無二の貴重品ではない。こういう奢侈品は外国にも出していたんでしょうね。

posted by 山科玲児 at 09:18| Comment(0) | 日記