2018年04月30日

北京故宮博物院の絵画をみる

北京故宮博物院の絵画を、かなり良い大きな画像で多量にみることのできる故宮博物院自身のサイト
をようやく見つけました。  約1千100点ぐらい。。

北京故宮は、結構面白いものがあり、マカオで,北京故宮と上海の八大山人絵画を多くみたんですが、北京のもののほうが良かったと思います。
特に感心したのが、猫石図巻でした。これは安晩帖と比肩するできでした。




posted by 山科玲児 at 12:39| Comment(0) | 日記

李成

ウィキペディアの
の項目を書き直しました。
posted by 山科玲児 at 09:47| Comment(0) | 日記

2018年04月29日

唐寅の肖像をみつけた

Tang Yin Portrait Detail.jpg


2018年04月26日
唐寅の肖像【追加あり】
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/183082854.html

で、新しくしかもひどい肖像に苦言を呈しておりましたが、
ようやく、古くかつ一応由緒もあり、良い唐寅の肖像を米国からみつけました(イメージは部分)。ワシントンのフリーアにある新羅山人が 1743年に描いた 唐寅  肖像です。これは、新羅山人が揚州で、
唐寅  五十自寿像  真本とされるものをみて、それを記憶して写したものだと自題に書いてあります。

原本は、周臣の絵ということになっていたそうです。周臣は唐寅逝去後まで活躍していたことは確かなので、その点では矛盾はありません。現在は消滅しているので、どんな絵だったかはわかりませんが、この絵に多少は類似したものだったのでしょう。あの老人の肖像より100年以上、色を最近つけたとしたら、250年以上は古く、しかも画家も由来も確かですから、、多少美化がある気もしますがまあいいのでは、、

 Portrait of Tang Yin(1470-1523)  Hua Yan(1743)
Freer/Sackler Accession Number F1981.26
1743年の作品
Ink and Color on Paper 97.3hx41,8w
清  新羅山人 1723 唐寅  肖像  フリーア・サックラー美術館
https://learninglab.si.edu/resources/view/264492#more-info


posted by 山科玲児 at 17:03| Comment(0) | 日記

存採叢書

存採叢書.jpg



存採叢書 目録
が、東北文教大学のサイトにありました。
結構珍しい本が多いようです。



イメージは、  續修東大寺正倉院文書   のぶんの1冊です。
なかなか良い表紙デザインだと思います。。

posted by 山科玲児 at 09:31| Comment(0) | 日記

故宮文物の伝世::嘘が多すぎる



蘇東坡の黄州寒食詩巻について、

>本詩巻は、歴代の皇帝により所持されたものであり、
とか宣伝文句がいわれることがある。

だいたい、北京の故宮博物院、台北の國立故宮博物院の文物の紹介でも

宋元明清  歴代の宮廷に受け継がれてきた、、

とかうたい文句をいうものだが、 果たしてそうだろうか??

まず、明末、李自成の北京撤退のとき、北京の紫禁城は焼き払われている。ドルゴンが紫禁城に入っとき土台しかなくテントで生活したそうである。 
いくらか残った建物はあったかもしれないが、北京の紫禁城にあった文物はほとんどなくなったはずだ。
つまり受け継がれていないのである。

じゃあ、なぜ、一見  受け継がれているみたいに、元宮廷の印や明政府の印があったりする書画があるのか??
明の皇帝は教養がなく書画に感心が薄かった。おまけに貪欲で、宦官がばっこし、没収した書画をすぐ売却したり横領したりしたからである。つまり、宮廷から民間に盛んに書画が流出していたので、
紫禁城が焼き払われたときの被害が少なかったのだろう。勿論 被害はあったのだが、(例えば欠十七行本十七帖はたぶんこのとき焼失している)、、全滅にはならなかった。

その前はどうかというと、元から明のときは大都(北京)征服のときには没収があって、これはわりと受け継ぎができてる。南宋が滅んだときもある程度は没収されているようだがモンゴル人自体があまり興味がなかったこともあり損失が大きい。北宋が滅んだときは徽宗皇帝が集めすぎていたんで相当失われてしまったが、金の宮廷へ没収されたものがかなりあるようだ。また、開封から南方へ避難する過程で文物書籍が失われた過程は、李清照の金石録後序によってよくわかる。

いずれにせよ、宮廷と民間を行ったり来たりした文物のほうが普通で、代々受け継がれたってのは、乾驕|>嘉慶−>道光−略ー>ラストエンペラー を除くと、ほとんどないと思ったほうが正確だろう。





posted by 山科玲児 at 07:15| Comment(0) | 日記

2018年04月28日

前田慶次の筆跡

隆慶一郎の歴史小説  一無庵風流記 で知った、前田慶次
の自筆とされる 道中日記が

市立米沢図書館 米沢善本完全デジタルライブラリー


に公開されていました。 ふと思い立って検索してみたら、ホントにありました。


全部読めます。

しかし、なんというか、優しい教養のある筆跡ですね。
びっくりです。



posted by 山科玲児 at 12:53| Comment(0) | 日記

米沢善本完全デジタルライブラリー

隆慶一郎の歴史小説  一無庵風流記 で、前田慶次が晩年隠棲したことで憶えている米沢だが、慶次含め直江兼続など、文人といってもいい人々がいた米沢には、多くの古典籍が伝わっているようだ。最近、古典籍のデジタルライブラリーによる公開が進んでいる(おそらく科研費がとりやすいからだろうが)、、にのったのか、

市立米沢図書館 米沢善本完全デジタルライブラリー

が既に登場していた。

上杉景勝の手紙(焦げてる)や、上杉信玄 上杉謙信 の朱印状などもある。
確か国宝の史記・漢書もここじゃなかっただろうか??

そういうものよりも、
李卓吾先生批評三国志 明刊本20冊 「建陽呉観明刻」  三国志演義
http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA107.html

の全部が閲覧できるというのはかなり
すごいことかもしれない。

なんか、此の本は、普通の三国志演義とは違って、巻頭の序文のあとに、三国志演義の登場人物、関羽・張飛・趙雲などなどの人物批評が対話形式で入っているのが興味深い。。

posted by 山科玲児 at 08:56| Comment(2) | 日記

2018年04月27日

ヴィクトリア・コンターク

道済Tao_Chi.jpg


ヴィクトリア・コンターク女史 Viktoria von Winterfeldt-Contag (1906–1973)は、画家画商 王季遷と一緒に、中国画家の印鑑印影を集めた集成本を刊行した人だ。最初の出版は1940年ごろのようだが、香港大学の1966年の出版が歓迎されていて、英語が併記されていたこともあり、長い間、特に欧米では便利な参考書になっていた。

Seals of Chinese painters and collectors of the Ming and Ch?ing periods
 by Victoria Contag and Wang Chi-ch?ien. Introd. by James Cahill.
明清畫家印鑑
Wang, Chi-ch?ien.
王季遷, (comp.)
Contag, Victoria, (joint comp.)
Published[Hongkong] : Hong Kong University Press, 1966.


1980年以降では、上海博物館が編んだ印影、サイン集成
中国書画家印鑑款識(上下)  文物出版社,1987 ( その後何度も再版され今でもでてるようです)、、など他の本もでてきた。

   この種のものは、真贋鑑定に使われやすいが、掲載印影がそもそも、真作・本物からとられているのかという、編集者の力量鑑定力に依存するところがある。全面的に信用するわけにはいかないが、あまり知らない画家などの場合は特に便利なものである。
  上海博物館編集のものは、当然ながら、上海博物館の所蔵品から、多く採っている。

  近年、香港の雑誌オリエンテーションズで印章専門家と称する人Kathleen Yangのあまりにも稚拙な印影比較議論みたので、いくら為にする議論とはいえ、欧米在住中国人の印影比較のレベルはこの程度かとがっかりしたものだ。この低レベルな論文が掲載されるような香港や米国の状況では、こういう集成本ですら宝重されるだろう。。。

  このヴィクトリア・コンターク女史は17世紀中国山水画という専門書もある人で、明末清初から18世紀の中国絵画を結構コレクションしていたようだ。
  ケーヒル先生のエッセイ
 What become of  the Contag Collection(コンターク コレクションにおこったこと)

は、このコレクションの行方についての興味ツツなお話である。

 このコレクションは、もともと、Contag女史が上海にいたときに収集したものだという。1950ー1960年代には、友人ローレンス・シックマンのつてでカンサスシティーのネルソン・アトキンス美術館に預けていたそうだ。
  ケーヒル先生がカリフォルニア大学バークリー校に移ったころに、Contag女史がコレクション150点をまとめて、あのブランデージ氏に売却しようとしていた。ケーヒル氏たちもそれをサポートしていたらしい。全部で45万ドルというみつもりだったようだ。サンフランシスコのアジア美術館にまとまることになるからケーヒル先生たちは援助したようだ。 ところが、ブランデージ氏の美術蒐集アドバイザー の妨害のためらしいのだが、、ブランデージ側からは10点ぐらいだけを買いたいという返事立った。女史はとても怒ってこの件を破談にしてしまった。結局、画商王季遷が買ってしまったようである。ケーヒル氏はなんとかカリフォルニアのベイ・エリアに留めようと、色々活動したようだ。
  まあ、原文読むと美術商、学芸員や学者の生臭い争い・嫉妬話がでてくるし、またケーヒル先生も、決して中立の立場とはいいかねるので、どこまで公平な記述かはわからないが、おもしろいエピソードには違いないと思う。
 このコレクションのなかには、石濤の有名な画冊があった。
  禹兄のために描いた画册、、とうもので、ケーヒル先生が紹介したこともあり、イメージの絵は特に有名である。  どうも、今は、米国個人の蒐集家のもとにあるようである。


posted by 山科玲児 at 07:21| Comment(0) | 日記

2018年04月26日

唐寅の肖像【追加あり】

西州話旧detail 唐寅.jpg唐寅像 六如居士全集.jpg

  昨日、ウィキペディアにでてる明中期の画家:唐寅(1470-1523)の肖像画をみて憤慨した。なんだこの老人は。。
  色男で多芸多才だった唐寅はこんな顔には描かれたくなかっただろうな。それに確か54歳で逝去している。昔は早老の人が多かったとはいえ、これはひどい。デスマスクのような意味での肖像なんだろうか

  唐寅自身が描いた  五十自寿図というのがあったらしいが、今は亡失している。唐寅自身が描いた自画像で小さなものが大きな山水画(西州話旧図、台北故宮と上海にほぼ同じものがある。このイメージは台北のから)の一部として残っているがそれは、左イメージのようなものである。また、ずっと後代、清時代の嘉慶6年であるが、唐寅の子孫縁戚が編集した唐寅の文学作品集  六如居士全集の巻頭木版肖像は右イメージである。
また、先述の五十自寿の模写の模写??らしいものがあって、香港あたりにあるものらしいが、原形をいくらか留めているかもしれない。いずれも、ウィキペディアの肖像とは似ても似つかない。映画や小説に出てくる唐寅のイメージなら右の六如居士全集のイメージのほうがよく合うように思う。ウィキもこれに変えたほうがいいだろう。

  しかし、どうしてこういう現実とかけ離れた、あるいは本人が描かれたいイメージともかけ離れた肖像を作り、またそれを平気で使うのであろうか??
  趙之謙の肖像も別人だった。
  本当に不思議だ。

【追加】酷い例だが、ある中国の唐寅の解説をしているサイトで文徴明の肖像と書いてある肖像画を顔のところだけ切って、唐寅の肖像画として、出していた。
  どうも、最初にあげた老人の肖像は、光緒年間に刊行された呉郡名賢圖傳賛にあげられた肖像をもとにあくどく色をつけたもののようである。 やはりそれほど古い絵ではなかった。
【追加終わり】


  そりゃ、屈原とか李白とか項羽とか曹操とかなら、まともな肖像が残っているわけがなく、イメージ的な肖像にならざるをえない。李白なんかは西域 条支の出身だからイラン人っぽい顔だったかもしれないが、似顔絵程度でも残ってないと結局は空想でしかない。しかし、明時代ぐらいからなら、結構信じるべき肖像があるし、万歴ごろからは西洋画法が入って気味が悪いくらい精緻な肖像がでてくる。だから、多少はましな肖像があることが多いのに、マンガや小説挿し絵ならともかく、ウイキペディアでこういう空想肖像を使ってしまうのはどういうことだろう。
  政治家や有名人の肖像でカリカチュアを好むような好みなのだろうか??  歴史事実に迫るなんて気が最初からさらさらなく、適当にやっているのだろうか

  そうなると、毛沢東の肖像はともかくとして、現実には優男の林彪の肖像なども全く捏造されることになるかもしれないあ。。
  ジョージ・マーシャル将軍にだまされた蒋介石も、自業自得なところもあるとはいえ、色々な意味で歴史的敗者だから、今後ちゃんとした肖像が伝わるのだろうか。。台湾でも虐殺者・圧制者として指弾されているから尊敬してくれる国がなくなりそうだからである。

 敗者といえば、第二次世界大戦後の裁判で「国民党はアメリカと通謀し、共産党はソ連と通謀したではないか。私たちが間違っていたのではない。単に日本が負けただけだ。」と正論を述べた陳璧君の肖像も残しておきたいものだ。
posted by 山科玲児 at 06:22| Comment(0) | 日記

2018年04月25日

大和魂の意味

瓜茄1号.JPG天龍山維摩居士 奥村伊九良s.jpg


  第2次世界大戦中に山西省で戦病死した、美術史家の 奥村伊久良氏(右は氏の署名)は、とてもオリジナリティーのある文章が多く、今読んでも、刺激がある。勿論、古い時代だから資料不足や認識不足のところがあるが、とにかくちゃんと自分で考える人なので、独自の思考が素晴らしい。下記のように、ソルボンヌで学んだ人のようである。
  たとえば、奥村伊久良氏の個人雑誌「瓜茄」1号(1935年 5月)(イメージ)に、 「やまとだましひ」という文章がある。
ここで、平安時代以来の、大和魂は「智恵」であって、堅苦しい唐才(からざえ)中国的知識じゃない。。
大和魂というのは、柔軟で要領の良い智恵であって、勇猛さなどとは正反対の、むしろ優美でやさしい方向の意味だった、、
という面白い考察を展開している。

****** 記 *****
奥村伊久良 (おくむら・いくろう)
1901年京都に生れる。1924年東京大学法学部政治学科卒業。1927年京都大学文学部美学美術史学科卒業後、大学院。1927-28年フランスへ留学。ソルボンヌ大学で美術研究。1929-37年の間、中国へ再三渡航し、主に北京および中国本土各地を視察旅行。1930年以降、著作活動に入る。1943年秋、応召。1944年10月22日戦病死(中国本土の野戦病院で。陸軍主計中尉)。著訳書 個人雑誌「瓜茄」(1935-39)『歴代画論――唐宋元篇』(青木正児氏と共に編訳、弘文堂、1942)『大和魂――歴史篇』(大八洲出版株式会社、1945)ほか。


posted by 山科玲児 at 07:45| Comment(0) | 日記