ブログ イタリアの泉 でヴェネチアのアルド(アルドス)版の話を読んだので、西洋の愛書家のことを思い出した。ただ、愛書家は、貴重な本そのものを尊重するあまりに、無内容の本や読まない本や読めない外国語の本を豪華な装幀でまつりあげるのに熱心で、肝心の、快適な深い読書をおろそかにするという本末転倒に陥る場合がある。私もその傾向がないではないので、常々自戒するところである。
例えば、ある豪華な古書展で、アテナイオス「食卓の賢人たち」のラテン語訳(原本はギリシャ語)の17世紀ぐらいの豪華な装幀の古書があった。当時はアテナイオスの日本語訳は抄訳すらなく、虚栄心と収集欲から思わず手をのばしそうになったが、ラテン語では満足に読めないから、自制心をとりもどして、手をひいたものだ。17世紀始めのヴァランチン・アンドレーエがドイツ語で書いたオカルト小説「化学の結婚 Chymische Hochzeit」も,薄いペーパーブックを入手したがドイツ語を半年で諦めた当方には読めず放棄してしまった苦い例があるしね。
イメージは、英国の愛書家・作家(特に童話)・編集者であったアンドリュー・ラングが書いたThe Library の扉絵版画(Source Ref)
この本にもアルド(アルドス)版やエルゼビル版への愛好が語られているが、そりゃ読みたい本が良版であれば、そういうのも良いだろうが、読みたくもない本が珍本だからといって収集する気にはなれない。ルイ・ベルトランの散文詩集 夜のガスパール(1842)にも「愛書家」という詩があって、詩の前の引用句に「エルゼビル本に心がときめくが、やはり欲しいのはアンリ・エチエンヌ本」(意訳 Ref2)というのがある。なんか、有名な版元を珍重することが優先されて、肝心の「何が読みたいのか」が蒸発してしまっているのではないか?と思わせるところがある。
アンドリュー・ラングが書いた書斎(The Library)には、生田耕作氏の優れた翻訳があるようだ。この本、実は前もっていたのだがなにかのおりになくしてしまった。ただ、英語の原本をもっていたのであえて買うこともないともってはいない。
この翻訳本をもとにした書評だろうが、松岡正剛の千夜千冊というサイトがある。
第347夜アンドルー・ラング「書斎」 白水社 1982 [訳]生田耕作 2001年8月1日
これを読むと間違いがあまりに多い。生田氏の翻訳がひどいとはおもいたくないので、松岡氏の早とちりであろう。
例えば、
✕>椅子は、なんといってもトリュブナー商会のものがよく、
〇>最近 愛書家のSir William Stirling Maxwellは素敵な椅子を開発した。
✕>椅子は、なんといってもトリュブナー商会のものがよく、
〇>最近 愛書家のSir William Stirling Maxwellは素敵な椅子を開発した。
✕>モリエールやコルネイユは手編みヴェネチア・レース装なのだ
〇>モリエールやコルネイユは手編みヴェネチア・レース模様の金箔押し皮装
〇>モリエールやコルネイユは手編みヴェネチア・レース模様の金箔押し皮装
実は、なんでこんな詮索をしたかというと
リチャード・ド・ベリーの「フィロビブロン」(「愛書」)に対して、
>、当時の書籍宇宙がフランスにこそ開花していることをつぶさに報告して、自分で涎をたらしたものだった。
という見当違いなことを言っていたから、他もおかしいかもしれないと、The Libraryを取り出してみたのである。松岡氏が「フィロビブロン」を読んでいないのは明らかであろう。「フィロビブロン」の邦訳は1973年に出ていて、1989年には講談社学術文庫で再刊しているので(教会)ラテン語だから読めないという言い訳はできないはずである。あまりいいかげんな書評はしないで欲しいものだ。
Source Ref: Andrew Lang, The Library, Macmillan, London, 1881
Ref2 Gaspard de la Nuit, CH. BOSSE Libraire, Paris 1920