2019年07月13日

陽三老食堂題字

posted by 山科玲児 at 19:37| Comment(0) | 日記

日本と中国

美人 趙澄湖 1929 ss.jpg

後編みつけたんで、読みました。
日本美術が憧れた「中心」はどう変遷してきたのか 西洋と比べて初めて分かる日本美術の意外な事実(後編)(1-4)  JBpress(Japan Business Press)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56933

 なんかなあ、イギリスをディスりまくりだし、初期ネーデルランドをきれいに無視だし、もうイタリア命の宮下先生の本領発揮という感じですが、、

どうも、ここで「美術」というのは「絵画」のことみたいですね。他のは無視!

日本と中国については、どうも誤解が多いようなのでひとこと

>日本美術はつねに中国の圧倒的な影響下にあった。しかし、平安時代や江戸時代に独自の展開を遂げ、日本美術のアイデンティティーを確立した。

まあ、おおかねそうなんですけどね。
江戸時代の例をいうと、
「我は大和絵師なり」(ref1)と言っていた鈴木春信がいたかと思うと、
「真の華人なり」といわれて喜んだ田能村竹田のような中国オタクがいる
ように、是々非々、ケースバイケース  そうとう多様性があるようですね。。

>外国から有力な芸術家が渡来して影響を与えた例は意外にも少ない。
これは中国側の問題だと思いますよ。
ここでいう外国というのは、「中国」しかないと思うのだが.中国の「画家」は16世紀以降は、文人画理念がでてきていて、官僚世界へひきよせられていました。 官界での評価が高いことが至上命題になっていったわけ。したがって北京へいくことはあっても、外国へ行って出稼ぎしよう・活躍しよう・外国の風景・文物を観ようという画家はほとんどいなくなりました。一応有名な画家の中では、例外中の例外が長崎に来ていた沈南ビン(沈セン)です。この人は李氏朝鮮の人物画家:崔[金彗]とも交渉があったようなので、よほどインターナショナルなビジネスやっていたんでしょうね。

>アジアの若者が日本の美術学校に留学するようになり、日本経由で西洋美術の技法を学ぶ。
>日本は西洋文化の周縁にありながら、東アジア美術の中心として君臨したといってよい。

これさあ、日本が代理人やったというだけみたいに書いているけど、それは間違い
 近代中国の国画の形成において、日本の絵画とくに菱田春草などの院派の影響が大きかった。
 上のイメージ 趙澄湖の美人  は1929年の作で北京で教育部(日本の文部省)主催の六万人が入場した大展覧会にも出品されたものですが、これ、
菱田春草 水鏡 1897
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Spiegelung_im_Wasser.jpg

の盗作ですよね。
  中国の、情感のある漫画の巨匠:豊 子ト(ほう しがい、1898年1-1975年)にしてからが、竹久夢二の作品に傾倒し模倣することからはじめております。夢二は「日本的な意味での文人画家」の末裔というように評価されている方ですね。
 つまり、意外に、日本で油彩を中心とする西洋絵画を学んでアジアに移植できた人は少ない。むしろ挿絵 版画 イラスト、近代化した日本画などをもとに発展させた人が多いんですね。

例えば、台湾の台南で活動した、
映画『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=LSfaEf8qgBA&feature=youtu.be
の本の装幀なんかは、西洋日本共通のモダニズムの最新流行をとりいいれているようです。

ref1  太田蜀山人  半日閑話 春信逝去の記事  同時代の記録

タグ:宮下規久朗
posted by 山科玲児 at 09:31| Comment(0) | 日記