2020年08月08日

戯鴻堂帖の原石

戯鴻堂 第2巻頭.JPG



  イメージは戯鴻堂帖 第2巻頭の拓本であるが、いうまでもなく安物の一冊だけの端本で、あまりよろしいものではない。一応古いものではある。
  全部のセットのイメージはハーヴァードにある。
https://curiosity.lib.harvard.edu/chinese-rubbings-collection/catalog/6-990095533640203941

  この戯鴻堂帖の原石は安徽省 博物館(合肥)に133個  現存しているという。故宮博物院古書画部副研究館員 尹一梅氏のコメント


  そうなると、清時代後期、明治以降近年にいたるまででも拓本をとったものがあるのではないか?と思う。

  現在、合肥は洪水被害なので、例えあとで発掘できる石であるとはいえ、心配である。

ただし、氏は
>二十世紀40年代に日本の空爆を受けて破砕した

と書いてあるが、なにかの間違いだろう。あったとしたら国共内戦だろう。1939年までにはこの地域では、大規模な戦闘はなくなっている。

タグ:戯鴻堂帖
posted by 山科玲児 at 14:53| Comment(0) | 日記

グリューネワルトとメムリンク

検索というのは面白いもので、1つの単語地名を横断的に検索するので、ときどきはっとする事実が浮かび上がることがある。
マチアス・グリューネワルトとハンス・メムリンク:この一見全く反対の画風の画家が同じ町の出身もしくは同じ町に住んでいた、とんでもない地縁があったようなのだ。勿論、年代がずれてるからその町で親交があったというわけではない。
それが、マインツの南部、アッシャンブルク近郊のゼーリゲンシュタットだ。
メムリンクはいうまでもなくゼーリゲンシュタット生まれである。両親が1451年ごろ逝去して、その後、おそらく、ケルン、ブリュッセルを経てブリュージュに落ち着いて大成した人だ。

マチアス・グリューネワルトが、遠くハレで仕事していて客死?したときの古文書があり、マチアスのゼーリゲンシュタットにいる息子に通知することが書いてあった。つまりゼーリゲンシュタットに本拠をおいていたのだろう。
マチアス・グリューネワルトは、アッシャンブルクのマチアスとも当時呼ばれていたのだから、アッシャンブルクとは深い関係があったんだろうが、まさかメムリンクの生地:ゼーリゲンシュタットと関係があったとは思わなかった。ゼーリゲンシュタットには、現在マチアス・グリューネワルト通り、というのがある。

そういうことで、マチアス・グリューネワルトは修業時代にブリュージュのメムリンクのとこにもいったのではないか?という憶測もあるようである(ref)。なんか到底信じられないが。
しかしあの苛烈なグリューネワルトと端麗優雅なメムリンクがねえ。

Ref. Pietro Bianconi,  Tout l'ouvres peint de Grunewald, 1984改版本、Flammarion, Paris
     
posted by 山科玲児 at 08:03| Comment(0) | 日記

ポルトガル料理



最近、注目してるのが、ポルトガル料理である。昔、マカオでポルトガル=マカオ料理の店にいってよかったこともあり記憶には留めていた。
最近、ポルトガル料理の本などを図書館で読んで、ひょっとしたら、日本の洋食にはポルトガル料理の影響、強いんじゃ無いか、とさえ思った。勿論、直接ポルトガルからというよりは、アメリカ経由とか英国経由とかいう間接的なものかもしれない。日本のスパゲッティ・ナポリタンが米国経由らしいように。

なんかさ、チキンライスとかコロッケとかもろポルトガル料理風なんだよな。また、日本人が欧州で食べ歩いて一番よかったという料理にポルトガル料理をあげる人が多い。

https://www.rakuten.ne.jp/gold/mp/recipe/type/tp_portuguese.html
posted by 山科玲児 at 07:03| Comment(0) | 日記