聖徳太子1400年ということで、法隆寺釈迦三尊像光背銘のことを調べていたら、東京芸大で、レプリカをつくり、しかも光背まわりの飛天まで復元した、という記事をみつけた。
クローンがオリジナルを超える!?東京藝大発・クローン技術が拓く文化財の未来 | 未来想像WEBマガジン
https://miraisozo.mizuhobank.co.jp/future/80082
蛇足としか言いようがない。飛天の出来の悪さヌメヌメ感が半端ない。
オリジナルの飛天なら断片でもみどころがあるのにね。檜隈寺跡出土の飛天断片
https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/hiten/jpg/109.jpg
モデルは法隆寺献納宝物中の光背(イメージ、当方撮影)だろうと推測している。 これは、横17.8cm、縦は柄を含めて30cm強という小さなものである。小さな仏像と大きな仏像では当然違うつくりになると考えなかったのだろうか??
奈良時代以前の大きな光背の飛天なんか、他に例がないので、モデルになったと推定される北魏時代のかなり大きな金銅仏光背の例をみてみよう。
メトロポリタン美術館 北魏 金銅仏 ACE524
https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/42162
メトロポリタン美術館 北魏 金銅仏 同時出土と伝承:無銘
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/53474
また、下イメージのフィレンチェI Tatti所蔵の永安2年の金銅仏(写真著作権消滅すみ)もある。亡失欠落した飛天もあるのだろうが、かなり間隔が開いているのが普通である。NHKなんかがよくやる妄想復元には相当な落とし穴があるだろう。
爆破されたバーミアン壁画の復元や、焼けた法隆寺金堂壁画の復元には大きな意味があり、尊敬すべき仕事であるが、こういうレプリカは情けない。ガラスで作った釈迦三尊像があるそうだが、そういうもののほうが、むしろ21世紀の創造物としてみどころがあると思う。
なお、この光背に飛天がついていただろうという推定を、当方は、
ミュージアム 第432号 (1987年 3月) 中国金銅仏の一側面−いわゆるAltarpieceについて−(田辺三郎助)
で読んだんだが、どうも明治40年(1907)に、平子鐸嶺が既に公刊していたようである。しかも上イメージの光背を例にしていた。
「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」 (考古界6の9号)
ミュージアム 第432号 (1987年 3月) 中国金銅仏の一側面−いわゆるAltarpieceについて−(田辺三郎助)
で読んだんだが、どうも明治40年(1907)に、平子鐸嶺が既に公刊していたようである。しかも上イメージの光背を例にしていた。
「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」 (考古界6の9号)
Source Ref ::
I tatti所蔵金銅仏の写真ソース:美術研究 第198号(1958年5月)松原 三郎「北魏正光期河北派金銅佛の一典刑−メトロポリタン美術館藏正光五年銘金銅彌−」