2021年03月31日

蛇足

光背P1110092 (2).JPG



聖徳太子1400年ということで、法隆寺釈迦三尊像光背銘のことを調べていたら、東京芸大で、レプリカをつくり、しかも光背まわりの飛天まで復元した、という記事をみつけた。

クローンがオリジナルを超える!?東京藝大発・クローン技術が拓く文化財の未来 | 未来想像WEBマガジン
https://miraisozo.mizuhobank.co.jp/future/80082

蛇足としか言いようがない。飛天の出来の悪さヌメヌメ感が半端ない。
オリジナルの飛天なら断片でもみどころがあるのにね。檜隈寺跡出土の飛天断片
https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/hiten/jpg/109.jpg


モデルは法隆寺献納宝物中の光背(イメージ、当方撮影)だろうと推測している。 これは、横17.8cm、縦は柄を含めて30cm強という小さなものである。小さな仏像と大きな仏像では当然違うつくりになると考えなかったのだろうか?? 
 奈良時代以前の大きな光背の飛天なんか、他に例がないので、モデルになったと推定される北魏時代のかなり大きな金銅仏光背の例をみてみよう。

メトロポリタン美術館 北魏  金銅仏 ACE524
https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/42162
メトロポリタン美術館 北魏  金銅仏 同時出土と伝承:無銘
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/53474

また、下イメージのフィレンチェI Tatti所蔵の永安2年の金銅仏(写真著作権消滅すみ)もある。亡失欠落した飛天もあるのだろうが、かなり間隔が開いているのが普通である。NHKなんかがよくやる妄想復元には相当な落とし穴があるだろう。

爆破されたバーミアン壁画の復元や、焼けた法隆寺金堂壁画の復元には大きな意味があり、尊敬すべき仕事であるが、こういうレプリカは情けない。ガラスで作った釈迦三尊像があるそうだが、そういうもののほうが、むしろ21世紀の創造物としてみどころがあると思う。

 なお、この光背に飛天がついていただろうという推定を、当方は、
 ミュージアム 第432号 (1987年 3月)  中国金銅仏の一側面−いわゆるAltarpieceについて−(田辺三郎助)
 で読んだんだが、どうも明治40年(1907)に、平子鐸嶺が既に公刊していたようである。しかも上イメージの光背を例にしていた。
「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」 (考古界6の9号)

Source Ref ::
I tatti所蔵金銅仏の写真ソース:美術研究 第198号(1958年5月)松原 三郎「北魏正光期河北派金銅佛の一典刑−メトロポリタン美術館藏正光五年銘金銅彌−」

I Tatti 永安 金銅仏ss.jpg
posted by 山科玲児 at 08:17| Comment(0) | 日記

2021年03月30日

パルティアンショット

マンガ  逃げ上手の若君にパルティアンショットでてきたので、
正倉院の2例をあげてみます。本場ササン朝のものは、著作権切れイメージがちょっとみつからなかったので。。

一つは、大きな銀壺の表面に線刻されているものの模写

正倉院銀壺模写IMG_2173b.jpg

もう一つは、豪華なモザイクの碁盤の横にモザイクでえがかれたもの
碁盤 正倉院  パルティアンショット (1).jpg
posted by 山科玲児 at 09:57| Comment(0) | 日記

豊福知徳氏の庭園

一昨年 訃報がでた豊福知徳氏
久留米市出身 豊福知徳さんが死去 中央公園 愛の泉など手がけた世界的彫刻家
https://kurumefan.com/toyofukutomonori
は、ミラノ在住が長かった。

この人は、収集家的な性格があり、なんか親しみ深いのだが、

2020年05月06日 聖セバスティアノの下の聖セバスティアノ
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/187454367.html
この逸話が一番面白かった。

この久留米中央公園の滝のようなモニュメントは、おそらくもっとも素晴らしい大作だと思う。
雑誌 みずえ(REF)のインタビューで印象に残っているのは、日本人は噴水は長くみては居られないが、滝のように落ちる水は長くみることができる、ということだった。また、これは、子供が遊ぶことを前提に作った作品だということも、このインタビューにあった。間違ってもロープで囲って子供をいれないというようなことはしないでほしい。「石声庭」という名前が「愛の泉」というひどい名前に変えられてしまっているけれど、他のコンセプトを破壊しないで欲しいものだ。

わりと良い動画があったので、紹介
福岡県久留米市 中央公園 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WOWXNTeXTYs

REF  季刊 みずえ、No.926   , 1983 春号

posted by 山科玲児 at 08:08| Comment(0) | 日記

2021年03月29日

中世の聖徳太子イメージ

聖徳太子 西本願寺.JPG



昔の1万円札以来、唐本御影がメジャーになってしまったけれど、中世の聖徳太子イメージってのは、この絵(西本願寺)みたいな、孝養太子の童子形が多かったんじゃないかなあ。その点、現在のフィクションの聖徳太子像に近い。
もう一つ多いのは、 聖徳太子勝鬘経講讃図というもので、こっちは、大人の聖徳太子だ。

イメージソース::寶雲  第20册 1937年8月30日 寶雲刊行所、京都

続きを読む
posted by 山科玲児 at 08:29| Comment(0) | 日記

2021年03月28日

釈迦三尊像光背銘の書風

太和 金銅仏 根津 (1).JPG

法隆寺金堂 釈迦三尊像が北魏風なのに、その光背銘(下イメージ)の書風が龍門造像記や北魏の墓誌銘とはかけ離れているという議論はしばしばみるところです。

しかし、これは金銅仏の銘文であるということを考えないといけません。北魏時代の確実な銘文でも、金銅仏の銘文の場合、上のような、ものが普通です。
 根津美術館:釈迦多宝如来像 の銘文(イメージ  写真著作権消滅すみREF)

しんにょうの末筆が下にいくという、光背銘の特色を、この銘文は共有してますね。
中国ですら、同時代の金銅仏の銘文文字書風と龍門造像記書風は大きく違うのですから、日本で別に同じでなかればならない理由はどこにもないと思います。
法隆寺釈迦三尊像光背銘の文字はかなり丁寧に制作されたもので、鋳造文字だという意見もあるようです。
Source Ref 美術研究  第33号(昭和9年、1934年9月)
 矢代 幸雄「太和十三年造金銅釋迦多寶二佛並坐像」
法隆寺釈迦三尊像光背銘 部分.JPG
posted by 山科玲児 at 10:32| Comment(0) | 日記

[論語疏]−中国6世紀写本の出現と公開



閑却してましたが、こういう新発見あったんですね。時代の判断については、まだいろいろな議論はあると思います。注釈を小字で書く例は6世紀ぐらいの出土品もあるようですし。

 ・ 2020年11月26日
[News] 【Keio Report】『論語疏』−中国6世紀写本の出現と公開
【Keio Report】『論語疏』──中国6世紀写本の出現と公開
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202011-keio_report_1.html?
m_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

http://dlvr.it/RmS25B
posted by 山科玲児 at 09:10| Comment(0) | 日記

2021年03月27日

織り込んだ文字

聖徳太子 唐本御影.JPG麒麟吉祥文字風通  京博.jpg


東野 治之,書の古代史,第1章8「聖徳太子画像の墨書」, 岩波書店、1994年、新装版「岩波人文書セレクション」、2010年 には、またも、東大の人が、誤認誤読した話が書いてあった。

1982年ごろに、上の聖徳太子  唐本御影の御物の実物を観察していた某氏が  掛け軸の表装布の上に「川原寺」 という文字を見いだした。これは、もともと川原寺にあった証拠の墨書だとして発表した。ところが、あとで 東野 治之氏が博物館の人たちとともに精細に観察したところ、実は、掛け軸の表装に使った布に銀糸(酸化して真っ黒になる)で織り込んである文字だということがわかった。同じ種類の織物ではないが(これでは銀糸ではないから)上イメージのように文字を織り込む布は中国では古くから作り続けられている。イメージは明時代のもの。しかもこの文字のことは大正時代の法隆寺大鏡に既に書いてあり、しかも誤読であることもわかった。某氏は、摩滅して読みにくい文字を読み間違えたのだ。

東野氏の指摘は1991年初出(単行本収録は1994年)であるのにも関わらず、30年も経った現在でも未だに、「川原寺」墨書を近年の調査で見いだした、などという、ネット記事が多数あるのは、まことに不思議である。
「聖徳太子」  「唐本御影」「川原寺」で検索すれば、たくさんでてくる。
訂正記事をださないマスコミの犯罪ということだろうか。


posted by 山科玲児 at 07:57| Comment(0) | 日記

東洋陶磁美術館 オープンデータ

大阪市のど真ん中、中之島の大阪市立東洋陶磁美術館が収蔵品画像のオープンデータのサイトを公開。なにせ、安宅コレクションを保存公開するためできたような館だから、とにかく収蔵品のレベルが高く偽物・贋作がなかなかみつからない、という希有なコレクションである。偽物・贋作だらけのコレクションというのも少なくないのにね。

posted by 山科玲児 at 05:16| Comment(0) | 日記

2021年03月26日

聖徳太子唐本御影  木版画

聖徳太子 唐本御影.JPG


この唐本御影のイメージはWikimediaにあるものなんだが、実は当方がデジタル化し、アップロードしたものである。

あちこちで転載されているようだ。聖徳太子1400年ということで更に多くなるだろう。木版画で、わかりやすいのはいいとしても、厳密な複製ではない。

出典がわからなくなっているようなので、ここであげておく。

鑑賞 日本名畫集、審美書院、昭和16年 木版画 聖徳太子唐本御影
posted by 山科玲児 at 08:21| Comment(0) | 日記

聖徳太子 実像と伝説の間

聖徳太子  実像と伝説の間.jpg


聖徳太子1400年ということで、石井公成氏の著作
聖徳太子 実像と伝説の間
https://honto.jp/netstore/pd-book_27630731.html

を、図書館から借りてきて、読んでいるが、優れた学問的な著作である。実は、一番面白かったのは、中世の太子信仰で、荒唐無稽の伝説・神話がつくられたことだ。楠木正成が四天王寺で触れたという聖徳太子未来記という予言書の話は知っていたが、まだまだあった。

「中世には兵書を伝授された兵法の達人として秘術を尽くして戦う太子を描くものまで登場しています。このため、戦国時代になると『日本無双の勝軍神』としてあがめ、戦の神とみなして戦勝祈願する武士もいたほどです。」

というところまであった。まるで、マンガそのものだ。「日出処の天子」を初めとする日本の聖徳太子マンガは、実は中世の太子伝の嫡流で由緒正しいものだったのかーー??。でも、そういや河内の太子ゆかりの寺に「勝軍寺」があって、戦前 飛鳥園の東洋美術に取材記事があったなあ。。また、水戸学・国学では、聖徳太子を仏教にかぶれた悪人とする見方まであったようである。2章以降は、かなり難しい話もでてくるのだが、この「はじめに」「第一章」がとてつもなく面白いので、聖徳太子1400年を機会に再版してほしいものだ。今は絶版品切れのようである。仏教関係の本を出してる春秋社からの出版だった。

この石井公成氏、実は、10年前、敦煌写本と藤枝晃氏つながりで知ったのだが、まともで、しかも弁が立つ人のようである。

2011年10月02日 藤枝晃説のその後
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/48283637.html
2011年10月08日 最後の未公開敦煌写本コレクション
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/48377374.html
藤枝晃先生のもう一つの勇み足
http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/b00ce64eda421e2a8de4d1964caaca62
posted by 山科玲児 at 06:20| Comment(0) | 日記