2021年06月14日

写本  書き入れ 版本  活字本

eki斎 書き入れ 荀子全書  国会図書館.jpg

  現在、学者として活躍している人々でも、あまりに活字化された文献に慣れすぎていて、
書画の目録や記録、美術関係の記録が、20世紀初頭ぐらいまで、写本・抄本が多かったという事実を閑却してるんじゃないか? と疑いたくなるような見解が少なくない。
 収集家や古美術商の記録なんかは、本人とその周辺だけにしか需要がないので、多量出版なんかされないのが通例である。勿論、なかには、自分の収集を誇示して、高価販売しようという企みのために出版する収集家も少なくなかった。全部贋作でつくった書画録さえある。
 しかし、そういうのでないものは手控えであり、1冊だけの写本になっていたものが多い。例えば「完顔景」の書画録もそういう写本の束を20世紀に偶然発見して世に出たもののようだし、呉其貞の記録もずっと写本で伝わっていてなかなか活字にはならなかった。四庫全書も実は本来は写本である。昭和35年上野コレクションが京都国立博物館に寄贈されたときの目録は、全部収録されているものに限っては、なんと手書きガリ版の粗末なものだった。
変な話だが、ある種の稀覯本なら、写本のほうが印刷本より安いということもあったらしい。
版本、活字本にならないと本ではない、という固定観念ができている人が多いのはいかがなものか。

また、写本や印刷本に「書き入れ」をやって、文字の訂正をしたり、他本との違いや、意見批評などを書き入れるという習慣も、ほとんど滅亡しつつあるため、そういうことを想像できない「学者」もいるようで困ってしまう。イメージは国会図書館から、、京都 葛西市郎兵衞 延享2(1745)刊「荀子全書」に、狩谷エキ斎が書き入れ 評注したもの
国会図書館所蔵





posted by 山科玲児 at 08:15| Comment(0) | 日記