佐藤 直樹, 東京藝大で教わる西洋美術の見かた (基礎から身につく「大人の教養」) 2021/1/27
https://honto.jp/netstore/pd-book_30701946.html
は、以前、いくつか書評をした。
そこに漏れていたコメント・メモも含めて、正誤表的に書いておく。
1回
>ビザンチンでは彫刻芸術自体が誕生しませんでした。
まあ、これは言い過ぎで象牙彫刻なんかはあったのですが、それでも圧倒的に少ないし、大型彫刻がないのは、皇帝レオのイコノクラスムのせいでしょうかね。
第2回
チマブエのところで、
>「より新しいスタイルが後世の制作とならないとkろが、美術史の面白いところです。」
は、よい着眼ですね。
また、聖史劇の舞台装置が、ジョットなどの絵画に影響しているという見解はとてもよいと思った。
しかし、著者はミステールの歴史を14世紀からと言っているようだが、
こういう聖書の物語や黄金伝説の物語を演劇にすることは、もっと古い。
音楽まで含めて一応完全に残っているものは12世紀末〜13世紀初めにボーヴェの学生たちが演じた「ダニエル物語」があり、
クロイスターズで1958年に再演された、
メトロポリタンのサイトで、近年の再演の動画がある
Play of Daniel - Daniel Interpreting the Writing
http://www.youtube.com/watch?v=bVQBdkKUteU
また、ヘロデ物語というのも、残っていて、再演されている。
典礼劇、聖史劇、神秘劇といろいろな呼び方があるが、こういう劇/音楽劇はそうとう古くからおこなわれていた。
またページェント 行列もずいぶん派手な作りものをともなうものがあった。そういうつくりものの絵画への影響もあっただろう。
マドリードの、三賢王パレードCabalgata de los Reyes Magos Madrid、
https://www.youtube.com/watch?v=mInTDbZnWj8
著者は音楽史に疎いのだろうか。。
第3回
>フレマールの修道院は存在しなかった
この決めセリフは、誤解が独断を呼んだものである。
・・
2018年08月20日 フレマール修道院はなかったのか? 続
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/184215841.html
>メロード祭壇画がカンパンの基準作
というのは、いかがなものか?
というのは、メロードの祭壇画自体、1956年ごろまで一般公開は2度のみ。1906年の金羊毛騎士団展、1923年のパリでの展のみ。写真すらほとんどなかったそうだ。戦前の高名なベルギーの研究者:ヒューリン・ド・ローですら、なかなか観ることができなかったという。
従って、1956年までは、研究すらできないものが、戦前から問題になっていた「フレマールの画家」グループの基準作になりえるのだろうか??
もっとも1906年の金羊毛騎士団展のカタログではメロードのマスター (フレマールの画家)となっている。カンパンの発見は、「フレマールの画家」=「ロベール・カンパン」という説が一般化したということによるのだから、むしろ、基準作ではなく結果として「メロード祭壇画はカンパンの作品」ということになったのだと思う。
>ロヒール 署名も記録もない。
実は、ロベール・カンピンのほうこそ、署名のある絵は1点もないし、カンピンが某某の絵を制作したという記録があってその絵が残っているということは1点もないのである。ずっと後世の伝説的な記録すらない。
ロヒールの場合は、わずかながら記録がないことはない。ロヒールの場合に無いというだけなのは不公正である。
2021年04月28日 プラドの十字架降架【訂正】
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188621523.html
第5回
>ルーベンスやプッサンという巨匠も、ラファエロの研究をまず版画から始めるのです。
>
この指摘はとても良いとおもいます。
第6回
デューラーの初期ネーデルランド絵画との関係を
云々するなら、ヘールトヘン・トート・シント・ヤンスの作品より、もっと直栽なものがある。メムリンクのリューベック祭壇画の一部分に、デューラーの師匠ミカエル・ヲルゲミュートと若きデューラーが顔を出しているからだ。
デューラーとメムリンク
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/187441235.html
これは,ルーベンス研究で有名なHans Gerhard Eversが1972年にドイツ語で出版した100pの本がもとなので、ドイツ語が堪能な著者が知らないはずはないでしょう。ちなみに、ヲルゲミュートの絵は、特に背景が初期ネーデルランド派っぽい。
デューラーの理想的人体比例だが、もしその結果が版画のアダムとイブだったとしよう。それなら、なぜアダムとイブ(プラド)、晩年の四福音記者で、それとは違ったプロポーションの人物を描いたのだろうか?
また、
https://honto.jp/netstore/pd-book_30701946.html
は、以前、いくつか書評をした。
そこに漏れていたコメント・メモも含めて、正誤表的に書いておく。
1回
>ビザンチンでは彫刻芸術自体が誕生しませんでした。
まあ、これは言い過ぎで象牙彫刻なんかはあったのですが、それでも圧倒的に少ないし、大型彫刻がないのは、皇帝レオのイコノクラスムのせいでしょうかね。
第2回
チマブエのところで、
>「より新しいスタイルが後世の制作とならないとkろが、美術史の面白いところです。」
は、よい着眼ですね。
また、聖史劇の舞台装置が、ジョットなどの絵画に影響しているという見解はとてもよいと思った。
しかし、著者はミステールの歴史を14世紀からと言っているようだが、
こういう聖書の物語や黄金伝説の物語を演劇にすることは、もっと古い。
音楽まで含めて一応完全に残っているものは12世紀末〜13世紀初めにボーヴェの学生たちが演じた「ダニエル物語」があり、
クロイスターズで1958年に再演された、
メトロポリタンのサイトで、近年の再演の動画がある
Play of Daniel - Daniel Interpreting the Writing
http://www.youtube.com/watch?v=bVQBdkKUteU
また、ヘロデ物語というのも、残っていて、再演されている。
典礼劇、聖史劇、神秘劇といろいろな呼び方があるが、こういう劇/音楽劇はそうとう古くからおこなわれていた。
またページェント 行列もずいぶん派手な作りものをともなうものがあった。そういうつくりものの絵画への影響もあっただろう。
マドリードの、三賢王パレードCabalgata de los Reyes Magos Madrid、
https://www.youtube.com/watch?v=mInTDbZnWj8
著者は音楽史に疎いのだろうか。。
第3回
>フレマールの修道院は存在しなかった
この決めセリフは、誤解が独断を呼んだものである。
・・
2018年08月20日 フレマール修道院はなかったのか? 続
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/184215841.html
>メロード祭壇画がカンパンの基準作
というのは、いかがなものか?
というのは、メロードの祭壇画自体、1956年ごろまで一般公開は2度のみ。1906年の金羊毛騎士団展、1923年のパリでの展のみ。写真すらほとんどなかったそうだ。戦前の高名なベルギーの研究者:ヒューリン・ド・ローですら、なかなか観ることができなかったという。
従って、1956年までは、研究すらできないものが、戦前から問題になっていた「フレマールの画家」グループの基準作になりえるのだろうか??
もっとも1906年の金羊毛騎士団展のカタログではメロードのマスター (フレマールの画家)となっている。カンパンの発見は、「フレマールの画家」=「ロベール・カンパン」という説が一般化したということによるのだから、むしろ、基準作ではなく結果として「メロード祭壇画はカンパンの作品」ということになったのだと思う。
>ロヒール 署名も記録もない。
実は、ロベール・カンピンのほうこそ、署名のある絵は1点もないし、カンピンが某某の絵を制作したという記録があってその絵が残っているということは1点もないのである。ずっと後世の伝説的な記録すらない。
ロヒールの場合は、わずかながら記録がないことはない。ロヒールの場合に無いというだけなのは不公正である。
2021年04月28日 プラドの十字架降架【訂正】
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188621523.html
第5回
>ルーベンスやプッサンという巨匠も、ラファエロの研究をまず版画から始めるのです。
>
この指摘はとても良いとおもいます。
第6回
デューラーの初期ネーデルランド絵画との関係を
云々するなら、ヘールトヘン・トート・シント・ヤンスの作品より、もっと直栽なものがある。メムリンクのリューベック祭壇画の一部分に、デューラーの師匠ミカエル・ヲルゲミュートと若きデューラーが顔を出しているからだ。
デューラーとメムリンク
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/187441235.html
これは,ルーベンス研究で有名なHans Gerhard Eversが1972年にドイツ語で出版した100pの本がもとなので、ドイツ語が堪能な著者が知らないはずはないでしょう。ちなみに、ヲルゲミュートの絵は、特に背景が初期ネーデルランド派っぽい。
デューラーの理想的人体比例だが、もしその結果が版画のアダムとイブだったとしよう。それなら、なぜアダムとイブ(プラド)、晩年の四福音記者で、それとは違ったプロポーションの人物を描いたのだろうか?
また、
そして、
>
片手に頬をあてる、、
>
デューラーの作品で、この姿勢の例として、リスボンの聖ヒエロニムスの姿勢がある。
1503年、ネーデルラント訪問のとき友人のロドリーゴに描いたもの、、
とすると、この素描自体の年代を1503年ごろにずらしたほうがいいかも、、
なぜなら、背後に巨岩があるのは、
これはパテニールの絵画の特徴だから。。
これをどう考えるべきか、、2つ考えられる。
・背後に巨岩をおくパテニールの絵画は先輩のヂューラーの影響を受けたもの。したがって 素描の年代は1497ごろ のままでいい。
・ この素描は、ネーデルラントに行ったときに観たパテニールの絵画の影響を受けたもの、ヨゼフの姿勢も1503年ごろの聖ヒエロニムスと同じ、素描の年代をずらすべきだ。
第7回
レオナルドについて、
ドーリアの板絵をなぜそんなにもちあげるのか、さっぱりわからない。
まさか、利害関係者のポジショントークじゃないかと邪推したくなるほどである。
最近のレオナルドの「新発見」はBSTVに出たというものも含めて、皆 魅力がないのが残念なことである。
>
第8回
>カラヴァッジョは発見されると、サンタンジェロ城に投獄されますが脱走に成功、逃亡先のトスカーナ地方ポルト・エルコレの真夏の海岸で。。死んだ。
カラヴァッジョがローマで拘留された牢獄は「トル・ディ・ノーナ」と呼ばれた建物で、サンタンジェロ城ではない。
この土地には、後にスウェーデン女王クリスチナの肝いりで劇場が建てられ牢獄は廃止になっている。
第10回
ここで、英国18世紀中期ゲインズバラとレイノルズによる「ファンシー・ピクチャーズ」の開発が、あげられているが、非常に優れた見解だ。
詳しくは→
2021年04月23日 ファンシー・ピクチャーズ
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188604882.html
11回で、ローマで活躍するドイツ人画家たち、ナザレ派に注目しているのが面白い。
佳作「イタリアとゲルマニア」については、何度か書いておいた。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188624662.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188632958.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/189035744.html
12回でドミニク・アングルは実はローマにいづっぱりだったことがわかって、なんか新発見したような感じもある。
>
片手に頬をあてる、、
>
デューラーの作品で、この姿勢の例として、リスボンの聖ヒエロニムスの姿勢がある。
1503年、ネーデルラント訪問のとき友人のロドリーゴに描いたもの、、
とすると、この素描自体の年代を1503年ごろにずらしたほうがいいかも、、
なぜなら、背後に巨岩があるのは、
これはパテニールの絵画の特徴だから。。
これをどう考えるべきか、、2つ考えられる。
・背後に巨岩をおくパテニールの絵画は先輩のヂューラーの影響を受けたもの。したがって 素描の年代は1497ごろ のままでいい。
・ この素描は、ネーデルラントに行ったときに観たパテニールの絵画の影響を受けたもの、ヨゼフの姿勢も1503年ごろの聖ヒエロニムスと同じ、素描の年代をずらすべきだ。
第7回
レオナルドについて、
ドーリアの板絵をなぜそんなにもちあげるのか、さっぱりわからない。
まさか、利害関係者のポジショントークじゃないかと邪推したくなるほどである。
最近のレオナルドの「新発見」はBSTVに出たというものも含めて、皆 魅力がないのが残念なことである。
>
第8回
>カラヴァッジョは発見されると、サンタンジェロ城に投獄されますが脱走に成功、逃亡先のトスカーナ地方ポルト・エルコレの真夏の海岸で。。死んだ。
カラヴァッジョがローマで拘留された牢獄は「トル・ディ・ノーナ」と呼ばれた建物で、サンタンジェロ城ではない。
この土地には、後にスウェーデン女王クリスチナの肝いりで劇場が建てられ牢獄は廃止になっている。
第10回
ここで、英国18世紀中期ゲインズバラとレイノルズによる「ファンシー・ピクチャーズ」の開発が、あげられているが、非常に優れた見解だ。
詳しくは→
2021年04月23日 ファンシー・ピクチャーズ
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188604882.html
11回で、ローマで活躍するドイツ人画家たち、ナザレ派に注目しているのが面白い。
佳作「イタリアとゲルマニア」については、何度か書いておいた。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188624662.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188632958.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/189035744.html
12回でドミニク・アングルは実はローマにいづっぱりだったことがわかって、なんか新発見したような感じもある。