19世紀の編曲

50variations Tartini.jpg

Giuseppe Tartini, The Art of Bowing for unaccompanied violin, Gilles Colliard, DRC3007
1992 DORON music, Switzland

YOUTUBEの再生リストでだいたい聴くこともできるようである。https://www.youtube.com/watch?v=6ZyI9AqOwFs&list=OLAK5uy_k3u1qh-_Sj5cx6Xvvf84Xokb-6XhwYI50
https://www.youtube.com/watch?v=eY-JoxK-1bQ
https://www.youtube.com/watch?v=vZxoRoNOGeo

タルティーニのこの長大な変奏曲を聴いていたとき、
この深淵な曲を、つまらないクライスラーの編曲にしてしまった19世紀というのは、どれだけのものを失ったのか? と思ったものだ。
勿論19世紀の音楽には、多くの収穫があった。しかし、あのコレッリのラ・フォリアを
言語道断のレオナール版にしてまい、タルティーニの深淵な大曲をあの不純で貧弱なクライスラー編曲にしてしまう19世紀ってなに、と感じないわけにはいかない。

posted by 山科玲児 at 06:22| Comment(0) | 日記

昔の東大


 忘れ得ぬ人びと : 矢代幸雄美術論集1 / 矢代幸雄‖著 / 岩波書店 , 1984.2
  に収録されている大村西崖のことを書いた矢代幸雄(東大出身) の文章の一部を初出;

大和文華 第14号、65p、1954年
から引用させていただきます。

>>
その頃ーといふのは大正の初め頃であるがー東大出身の美術関係者には、著述をしないことを以って寧ろ名誉とするかのやうな風潮があった。
。。略。。
私共若い者の間には、なるたけ著述を出さないことを以って、自己批判のきびしい、或は頭のよい証據のやうな見えにすら思ひ、それと結びついて、何か形の残る発表をすれば、人にあら捜しをされる心配も手つだって、あまり著述をする人を「本作り(ブックメーカー)」などと言って軽蔑し、自分はお高く止まるといったやうな風習をすら生じた。
>>

(できるだけ旧字旧かなを残した)


  現在から見ると信じがたい陋習であり、とても学問の府とはいえないような保身と堕落であるが、東大に、このような風潮があったということは、歴史的な理解を助けるものだと思う。
  当方も、自ら省みて、旧稿で放置しているものもちゃんと補筆して公表しないと不味いなと感じたものである。
 東大のボス 瀧精一は、国宝保存会の長でもあり、法隆寺金堂壁画焼失の責任者の一人でもあったはずだ。
  東大東洋文化研究所の中国絵画専門家も現在は、ややましな人に変わったが前任者はとんでもない人だったしねえ。


posted by 山科玲児 at 05:58| Comment(0) | 日記