2022年12月29日

歴代王朝と故宮博物院

REDWALL  紫禁城 北京.jpg


   イメージは、北京  紫禁城の壁  当方撮影

  北京でも台北でも、故宮博物院のうたい文句に「中国歴代王朝に受け継がれた宝物」というのがあるが、果たしてそうであろうか?
  民末、李自成の軍が北京を占領し、皇帝が自殺明が滅びた後、清軍と呉三桂の連合軍が北京を攻め落とした。そのとき李自成は、紫金城を焼いて逃亡してしまった。そのため、北京に入ったドルゴンの軍勢は、土台だけになった紫金城の焼け跡にパオ(モンゴル式のテント家屋)をはって住居としたそうである。勿論、小さな建物で焼け残ったものもあったようだ。明時代に遡る文書のゴミ倉庫が後に調査され貴重なものが回収されたりしているから。しかし、少なくともこの時点で明朝から清朝への美術品の継承は無かった、とみなすべきである。

  したがって、「中国歴代王朝に受け継がれた宝物」といのは、かなり嘘だといわざるをえない。

  しかしながら、両故宮博物院の収集品には、確かに宋元明の王室にあった美術品がある。
 これはなぜなんだろうか?

 つまり、それらの美術品は宮廷から一度民間や官僚富豪の邸宅などへ移動し、再度、たいていは別王朝の宮廷に入ったのである。このように宮廷と民間を移動していたのが現実である。だからこそ李自成の焼却にも生き残ったのである。したがって、明の宮廷倉庫に明末にあったものは、滅びている。

では、宮廷から、民間には、どうやって出たのか?
皇帝が臣下や親族に下賜したり、軍資金に窮した皇帝が売却するというようなこともあったかもしれない。
しかし、宦官が盗んで売却した場合が多かったようだ。
 後宮と皇帝一家の私有財産の管理は宦官がになっていたことが多かったからである。
 また、王朝が滅びたとき、大規模な略奪が発生した結果である場合もある。清王朝の場合も満州に移した宝物については満州国崩壊のとき、それが起きた。ラストエンペラーが最後までもっていたものについては、中国軍?国民党軍?赤軍? が差し押さえたので、これは東北博物館経由で北京故宮博物院に入っているものが多い。
しかし、略奪や盗難、処分などで北京の骨董市場にあふれたものも多かったのである。
posted by 山科玲児 at 07:09| Comment(0) | 日記