2023年04月22日

デューラーとメムリンク 再

memling durer.jpg

リューベックのメムリンク晩年の祭壇画に言及した際に、この祭壇画にアルブレヒト・デューラーとその恩師ミカエル・ウォルゲミュートの肖像が挿入されているという説を、また思い出した。

2020年05月02日 デューラーとメムリンク
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/187441235.html

前書いてからURLが変わってしまっていたので、URL訂正した2007年の稿を再度掲示する。


****  記  *****

memling durer.jpg

 2007.07.22

十字架の下の3人

ハンス=メムリンクについて、1998年に書いた英語の文
を、書き直していたら、メムリンクとデューラーの関係を示唆する奇妙な証拠を思いだした。 Eversが1972年に、リューベックの聖アンナ教会のメムリンクの大作「受難図」(1491)の中に、若きアルブレヒト=デューラーとその先生 ミカエル=ウォルゲミュートの肖像を見いだした。この絵は複雑煩雑で、人物が多いのだが、中央画面左下、改心した盗賊の十字架の下に3人の男がいて、その2人がどうみてもデューラーとウォルゲミュートにみえる。2人が別々の作品にでるなら、他人のそら似ということもあるだろうが、同時にくっついて表れているので偶然ではないだろう。 Eversは、3人をウォルゲミュート、デューラー、メムリンク自身と推定している。1490年ごろのデューラーはウォルゲミュートの工房での徒弟修行を終えて遍歴修行の旅にでている。当然、当時の絵画の中心のひとつであったブリュージュやブラッセルにも行っているだろうから、メムリンクの工房でjourneymanとして助手として臨時に働いてもおかしくはない。祭壇画の中のウォルゲミュートの肖像はデューラーがもっていた手控えのスケッチ帖から再現したのだろう。ファンアイクの肖像制作も詳細なスケッチをもとにして本人がいないところで制作されたらしいからこのような制作方法は当時ではざらにあった。
また、この絵は晩年作(1491)のせいか、様式的には他のメムリンク作品とはかなり異なっていて下絵構想から助手たちとの共同制作ではないかと思われるものがある。またドイツ市場を意識したのか形式・人物像もドイツ的でなかにはほとんどデューラーの登場人物のような感じがする顔もいる。女性の優美さが、内面右翼・最外翼の受胎告知以外にあまりないのが、メムリンクとしては異例である。
 それに、ミカエル=ウォルゲミュートはひょっとしたら、メムリンクと直接間接に関係があったかもしれない。彼が描いた油彩画はメムリンクやクリストスのものによく似ているので、フランドルで学んだ可能性がある。ウォルゲミュートとメムリンクは殆ど同世代である。メムリンクの故郷のゼーリゲンシュタットはニュールンベルグに近く、ニュールンベルグからライン川沿いにオランダへ行く経路の途中にある。当時の遍歴修行といっても親方が紹介状などを書いていくのではないだろうか。一種の就職・アルバイトなのだから、治安が悪かった当時みもと不確かな人を雇うような無謀はしないだろう。デューラーもウォルゲミュートの紹介状をもって旅したのではなかろうか。
あるデューラーファンの人は、この当時デューラーがどこにいたのかはよくわかっていないのだそうで、興味深いと以前言っていた。
ただ、学会で完全に認められているわけではないらしいが、面白い。
 左が祭壇画の部分拡大、右がデューラー作 ミカエル=ウォルゲミュートの肖像(ただし、ずっと年取ったときのもの)

Das Passionsretabel der Familie Greverade von Hans Memling
https://st-annen-museum.de/memling-altar-digital-story

Wikimedia
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Greveradenaltar


posted by 山科玲児 at 07:51| Comment(0) | 日記