2015年06月23日

音楽におけるミスアトリュビーション


 ミスアトリビューション(作者推定の間違い)は、音楽においても美術作品においても、しばしば起こる。時代が1世紀ぐらい違ったり、同時代の無名作曲家になったり、何人かの作曲家や編曲者が1曲に1世紀も隔ててかかわっていたりする。

  ここで、ちょっと奇妙なのは、絵画の場合は、こういうミスアトリビューションで作者が変わる作品が、代表作であることは少ない。例外はレンブラントの「黄金の兜の男」ぐらいだろうか。一方、音楽の場合は、音楽史学者がいう代表作ではないが、最も人口に膾炙してよく知られ親しまれている曲が実は間違いでした、他の作曲家の曲でした、ということがときどき起こるのである。

 例えば、小学生のころはハイドンのおもちゃのシンフォニーと教わった曲は、今はレオポルド=モーツアルト(モーツアルトのお父さん)の曲になっている。 パパ ハイドンの逸話は嘘だったのか。

 とても面白いロッシーニの「猫のデュエット」もロッシーニ作の部分は半分以下らしい。ロッシーニが作った作品をもとに他の作曲家がまとめたもののようである。

 ヴァイオリン曲として有名な素晴らしいヴィターリのシャコンヌも、本当にヴィターリの作品なのか確証はない。

 極めつけは、バッハのあのトッカータとフーガ ニ短調BWV565だ。ディズニー映画のファンタジアの冒頭でオスカー=フィッシンガーが素晴らしいアニメーションをつけていた。G線上のアリアなどと並び、バッハの作品では最も有名だろう。これにもまた、バッハの作品ではないのではないか? バッハが作ったとしてもオルガン曲でなくバイオリン曲として作曲したものを後世の人がオルガン曲に編曲したのではないか?という疑惑がある。

 古いところでは、ジョスカン デプレ(?−1521)の曲とされてきた「アブサロム  我が子よAbsalom Fili Me」が実は同時代の他の作曲家の作品だ、という説が有力になっている。そうすると、これは「息子を失ったアレクサンドル法王への曲」という憶測は皆ふっとんでしまう。

 こういうことが多いから、作曲家の伝記って書きにくいだろうなあ、と思うところである。


タグ:西洋音楽
posted by 山科玲児 at 09:11| Comment(0) | 2015年日記
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