三省堂書エン(苑とは少し違う字)昭和15年7月号 (第四巻第七号)56−58ページに
北支シュウ記(一) 池田醇一
という紀行文・観賞記がある(イメージ)。
これは、1940年春のことである(上記イメージの赤線)。
そこには、イメージに明示したように、北京故宮が手入れが悪く荒れているようではあるが、書画拓本の展示がされていたことが記述されている。いうまでもなく。公式の故宮博物院史では、この時点では北京には故宮博物院はない。1933年:7年前に北京を離れ、南京を経て重慶へひっこしている。
しかも、イメージにあげたように、「蔡襄の書札 呉キョ詩帖などが興味をひいた」と書いてあるが、これは、
で指摘したように、北京「故宮博物院」で立派な影印本が1940年前後に出版されていたものである。
この出版については、写真や原版を上海などにもっていって名前だけ「故宮博物院」で出版したという可能性も疑っていたが、これで完全に氷解した。やはり北京にずっとあったし北京で出版したものなのだ。
ということは、1940年に北京故宮博物院が北京にあったことになり、それは中華民国臨時政府 または汪兆銘政権のもとでの組織だったという結論になる。これは明らかに「第三の故宮博物院」だ。
なんのことはない、日本軍保護下で故宮博物院が正常に活動していたということである。しかもそのコレクションが現在の北京の故宮博物院の中核の一つになっているのである。
実際、「蔡襄の書札 呉キョ詩帖」は2012年東京で開催された「北京故宮博物院二百選展」に展示されていた。このときは清明上河図巻がくるというので大騒ぎになっていたもので、日本での北京故宮博物院の出張展のなかでは、最も質が良い展覧会だった。
前にも書いたんだが、日本の傀儡政権 中華民国臨時政府 の一部であったので、できるだけ誰も触れようとしなくなり、当事者すら隠蔽してしまったのだろう。
この池田醇一(1893-1974)氏は、学者のかたのようで、
のご子息である。
氏のお父上なんだそうだ。
いずれにせよ。日本のエスタブリッシュメントに近い、学識もある人の記録なので、信憑性は高い。
この古雑誌は東京で20世紀末ぐらいに買ったものである。証拠や資料がすぐ足元にあったのに何年も気が付かないことが多いものなんだなあ、、と感じた。