2016年11月24日

鳥獣戯画 危機一髪

鳥獣戯画 修理報告.JPG

   鳥獣戯画 修理から見えてきた世界  勉誠出版
     http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=9_28&products_id=100625

を図書館から借りてきて精読しているが、
 鳥獣戯画絵巻は、危うく改造されてしまうところだった、危機一髪だった、ということがわかった。

末尾近くに文化庁の役人 朝賀浩 氏が書いている
**国宝「鳥獣人物戯画」甲巻における現状変更(錯簡訂正)の検討について 朝賀浩
を読んでゾッとした。
  確かに甲巻には、「紙の繋ぎかたを間違ったらしい」とされるところがあるので、それを元に戻そうという意見があり、学識経験者五人にもきいたらおおかね賛成ということだったそうだ。その案は紙の順序を変え、甲巻を2つにわけて2巻にするというものである。
 この案については、所有者=高山寺 が反対して、中止になったのだそうだ。

  私は、本当に良かったと思う。高山寺の見識は学者たちよりよほど高級だと感心した。九州国立博物館でのプレビューのとき高山寺の幹部の方の挨拶があったが、もしこのことを事前に知っていたら感謝の言葉をかけたいところだった。

 なぜ、こういう復元がいけないのか? 改善ではないのか?
 それは、
   1.現在の学説が正しいとは限らないからである。間違ってました、となったときにまた元に戻すのか?、ありえないだろ。
   2.紙継ぎの間違いそのものにも歴史が潜んでいるからである。ある種の学者は美術品を制作当時に戻したい、という固定観念・執念があるようだが、それは単なる偏見である。発掘で2千年を飛び越えて土中からでてくるものならそれは正しいだろうが、何百年も受け継がれた美術品にはその間の歴史・履歴というものが刻まれており、その歴史(Historicity)自体がその古美術品の価値・本体の一部になっている。それを制作当初のものではない(と思われる)からといって訂正・除去してしまうのは危険極まりない。間違いがあったとしても、それ自体が伝世史の証人・証拠である。

  修理というのは、美術品のこれ以上の損壊を防ぎ、次の世代にできるだけ安全に受け継いでもらうためにやるもので、学者の学説のためのオモチャではない。したがって、「一見、修理していないような修理が最も優れた修理」といわれる所以である。
  間違いを正すのだったら、現物ではなく、出版物やデジタルメディアでやればいいのだ。現物をオモチャにしてはいけない。

  確かにプラドのモナリザのように、後世の上塗りを除いて訂正した結果優れた作品を見出すこともあるし、東大寺法華堂の弁財天のように、崩れ落ちそうになった塑像を復元修理するというやむを得ないと判断せざるを得ない場合もある。 しかし、一部の役人や一部の学者や一部の修復家には、自分の偏見や独断で古美術を破壊し改造して平気な人間がいる。そういう人間に限って、修理しなくてもいい古美術を「修理」と称していじりたがるものである。

  なお、今回の鳥獣戯画修理でも最小限の変更はある。紙継ぎの下に隠れていた部分を表に出すようにしたこと、乙巻で1.5cmの幅の細い紙が裏返しに継いであったのでそれを表に変更したこと。
  まあ、これくらいは許容できる範囲だろう。裏返しというところは、そのままでもよかったかもしれないが、なんとかギリギリ許容できるところかと感じた。


posted by 山科玲児 at 09:44| Comment(0) | 日記
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