で問題になった曜変天目は、「シェパードをだしてポメラニアンだと鑑定」したような馬鹿げたことであって、なぜこういうことが起こるのかわからない。ただ、この場合は実物がまだ三個+割れたもの一個があるわけで、ある意味わかりやすい。この件で、鑑定団を擁護している人は骨董には近づかないほうがいいだろう。
しかし、中国絵画史研究自体の歴史を省みるとあることを思いつく。
実物がないのに絵画の歴史を語ったために偽物が際限なく生産されたという現実である。
実物がないのに絵画の歴史を語ったために偽物が際限なく生産されたという現実である。
実物がないのだから、比較しようがないし相当古い時代に作った偽物なら偽物なりに価値があるとかわけがわからないことになっている。それでもまだ忠実なコピー模倣品なら原作の画風なりとも推測することができるので良い資料になるし珍重されて当然だ。例えば鳥獣人物戯画の古い模写本は失われた部分を考え、現状がどういう経過を辿ったものなのかに光をあてる貴重な資料になる。
ところが、もっとひどいケースが中国絵画には多い、今回の曜変天目に似た事情であるが、「縁もゆかりもない絵画に、有名画家のサインをいれたり勝手に有名画家の作品だと鑑定して高価にする」というのが頻繁に行われた。なにしろ実物がないのだから証拠がない。ピカソの絵にレオナルドダヴィンチとサインをいれたりレオナルドダヴィンチと鑑定するようなもので、レオナルドダヴィンチの絵が全て消滅し図版もコピーもなくなった状態で、そういうのが横行するとレオナルドダヴィンチの画風自体がわからなくなってしまう。
「レオナルドダヴィンチ」という名前だけが文献で残った場合にはありえるのだ。
それは、
「文を望んで義を生じる」というもので、「本に書いてあるものは存在するはずだ」という根拠のない確信である。戦前までの中国絵画史が「絵のない絵画史」「文献だけの絵画史」になってしまったのは、ありもしない唐宋の絵画を至上のものとして、一応、実物のある明清の絵画を低くみたことが原因である。
「文を望んで義を生じる」というもので、「本に書いてあるものは存在するはずだ」という根拠のない確信である。戦前までの中国絵画史が「絵のない絵画史」「文献だけの絵画史」になってしまったのは、ありもしない唐宋の絵画を至上のものとして、一応、実物のある明清の絵画を低くみたことが原因である。
イメージの宣和画譜の王維(唐時代の詩人画家)の項目をみれば、11世紀の徽宗皇帝のコレクションには118点もあるんだから、1点ぐらいは残っているだろう、オレの手元に売りに来るかもしれない。と妄想を働かせるのである。更にこういう本に載っている題名をつけた絵画をそっくり偽作するということが行われた。つまり、絵画から本ではなく、本から絵画をつくるのである。
このようなものの例として、
がある。どうみても17世紀以降の作品で画風も唐画の模写ではないが、「王維」と鑑定されている。
ルネサンス期には、消えて亡くなった古代ギリシャ絵画の名作を再現しようとして、文字資料文献だけを頼りにボッテチェルリやティティアーノが制作した作品がある。洋の東西を問わずこういう傾向はあるようだ。