2017年04月09日

北京 故宮博物院の中核

北支シュウ記 (1).JPG


  どこの美術館でも、貸し会場 ギャラリー的なところをのぞけば普通は中核をなすコレクションがある場合が多い。 例えば、ミラノのブレラはナポレオンが廃絶した北イタリアの教会から集めた美術品をミラノの美大に集めたのが中核になっているし、ペテルスブルグのエルミタージュは、エカテリーナ2世のコレクションが中核だろう。その中核に多くの追加コレクションが加わって巨大な美術館になるのである。

  では、紫禁城こと、北京 故宮博物院の中核:建築や建築付属装飾品以外の絵画や美術品はどこからきたのだろうか? 
 昔から、紫禁城の中身は台北にあり、北京にあるのは建築だけ、抜け殻だけだというような言い方がされていた。その意見には一理はあるが、北京には、蘭亭八柱の三本もあるし、清明上河図巻もある。他にも貴重な絵画墨跡工芸品がある。それらはどこから湧いてきたのか? 台湾へ逃げる蒋介石のスタッフがこのような貴重なものを放置したのだろうか? また、たしかに清末民国時代に民間に流出したものが寄贈没収購入などで戻ってきたものも多いが、それだけでは説明できない。

 私が考えるに、日本軍占領期に北京故宮内にのこっていたコレクションと満州国皇帝溥儀から没収したコレクションの一部、国民党が運びきれずに南京に放置した文物の一部が中核だろう。清明上河図巻は満州国由来である。前者には、楊凝式「神仙起居法」と2012年の東京での北京故宮博物院200選展に出た蔡ジョウの書、呉キョの書などが含まれる。これは、イメージの池田醇一氏の旅行記によって明白にわかる。

 おそらく、蘭亭八柱の三本も日本軍の保護のもと、北京の傀儡政権が保存していたものだろう。これらの唐模本といわれる蘭亭序の三本のことについては、
蘭亭八柱第一第二第三本はどこにあったのか?
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/105519243.html

細かくいうと、根拠・証拠は、、
「昭和16年5月、泰東書道院の機関誌『書道』(第10巻第五号)に、西川寧先生が北京からもたらされた『唐人蘭亭二種』の写真が掲載された」(谷村憙斎、1954)
である。これが、この蘭亭序模写本が日本に紹介された最初の機会だった。
昭和16年というと12月には真珠湾攻撃があった年であり、日本軍が北京を占領してから3年以上経っている。故宮博物院の主要文物は重慶周辺へ避難していたはずである。西川氏はどうやって写真を入手したのだろうか??
 もともと北京に残っていたと考えるのが当然ではないか。

REF 谷村憙斎、蘭亭叙の諸刻本とその系統、定本 書道全集4,河出書房、1954に収録。  
posted by 山科玲児 at 08:55| Comment(0) | 日記
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