一週間ほど前だが、朝鮮民主主義人民共和国の
というのがあったが、罵倒する表現の豊かさには感心した。
例えば、「彼は明らかに政治家ではなく、火遊びを好むならず者、ごろつきだということで間違いない。」なんて表現は見事であり、模倣したくなるくらいだ。
勿論翻訳であるから、どこまで原語の感じを再現しているのかどうかはわからないが、感銘を受けた。
というのも、日本語は、罵倒非難誹謗の表現に乏しいように思うからである。こういう優れた「罵しる技術」が発達していない。勿論、金正恩の原稿はゴーストライターなのかもしれないが、戦争中の日本の新聞でもこのようなすざましい罵倒表現はなかったように思う。
日本人は、罵倒の長い応酬に耐えることなく、剣を先に出してしまう。黙って切ってしまう。あるいは逃げてしまう。
日本人同士だと、あいてがキレる間合い・空気が読めるから妥協が成立するのだが、こういう外国人の場合は、まだ罵倒の応酬だと思っていたら、真剣勝負になっていたということになって、相互に問題がでてしまう。
日本人同士だと、あいてがキレる間合い・空気が読めるから妥協が成立するのだが、こういう外国人の場合は、まだ罵倒の応酬だと思っていたら、真剣勝負になっていたということになって、相互に問題がでてしまう。
どうも、こういう文化の違いが日中戦争の平和交渉の傷害になったこともあるのではなかろうか。
朝鮮半島の「声闘」だけでなく、大陸でも、
朝鮮半島の「声闘」だけでなく、大陸でも、
>スミス 支那的性格 第22章 1894年
支那人の喧嘩は罵りあいの口論だ。
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支那人の喧嘩は罵りあいの口論だ。
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ということだから。
これについては、良い解決策はたぶんないのだから、福沢諭吉の「脱亜論」のような諦観になるしかないだろう。