を読んでいて、気がついた。
158−161pに、古本竹書紀年を引用して、その本文の中に後世の補足や注釈が紛れ込んでいることを、前著では考慮せず書いてしまったことを謝罪している。
実際、昔は本文も注釈もベタで筆で書くから、注釈や解説文が本文に紛れてしまうということは、多かったようだ。
でも、大無量寿経の「三毒五悪の段」が、サンスクリット原文がないことと文体があまりにも漢文的であることから、中国人の解説文が紛れ込んだと推定していたことを思い出した。これは翻訳本の場合だが、荘子でも去年も書いたように知北游篇の一部、老子の引用のようにみえる部分(イメージ)は注釈がまぎれこんだものではないか、と思っている。この唐抄本で既にそうなっていて、該当部分に更に後世の注釈までがついているから、紛れ込んだのは相当古く、あるいは後漢時代ごろかもしれない。
だから、これを根拠に、此の部分の老子は荘子以前に成立したものだとかいうことはできないだろう。