世界大百科事典の高鳳翰(イメージは肖像 木版画) 項目に疑問を書いたが、調べてみると、色々わかってきたので、
前の投稿を削除して、ここに少し詳しく書く。
世界大百科事典の解説は、ここに引用されている(図書館で現物でも確認している、世界大百科事典が、横書きになっていたのには驚きました)
コトバンク
役人を讒言でやめた、と書いてあって、そのあと病気で右手が利かなくなったと書いてあることだ。これを読むと、役人を辞めて健康な時代に職業画家として盛んに制作したかとのようにみえる。で、その精力的な画家が病気で大打撃を被り貧窮に迫られたが、左手で制作するようになってさらに特色のある絵画を生み出すようになった、、というストーリーになっているようにみえる。
しかし、
2册の研究者による年譜(REF)を読むと、高鳳翰が役人をやめたのは病気で右手が利かなくなったときと殆ど同時である。 だから、右手時代は役人が本業のアマチュア画家文人画家だったのである。勿論、役人になる前もまた画家・詩人・書家であったようだ。 ただ、役人仕事には精励してないようで、あまり出世していない。おまけに旅行ばかりしていたようで、上司の盧見曾(1690年−1768年)の庇護がなければ、免職されていたかもしれないね。
2册の研究者による年譜(REF)を読むと、高鳳翰が役人をやめたのは病気で右手が利かなくなったときと殆ど同時である。 だから、右手時代は役人が本業のアマチュア画家文人画家だったのである。勿論、役人になる前もまた画家・詩人・書家であったようだ。 ただ、役人仕事には精励してないようで、あまり出世していない。おまけに旅行ばかりしていたようで、上司の盧見曾(1690年−1768年)の庇護がなければ、免職されていたかもしれないね。
もう一つ、奇妙なことは病気以前の年に「左手で描いた絵」があることだ。これが本当なら、高鳳翰はもともと左利きだが、右手を使うように強制された人:両手利きだったのかもしれない。 それとも、右利きであったとしても、左手で描いてみようという試みをかなりやっていた人じゃないかと思う。
それなら、左手を使うようになるのも自然なことだろう。
それなら、左手を使うようになるのも自然なことだろう。
世界大百科事典の記述は、芸術家の悲劇を演出したかった誰かが書いたそういう小伝によったものではなかろうか。。と思っていたら、
でとりあげた
清代学者像伝 についてる小伝がよく似ていた。世界大百科事典はこれからとったらしい。
これは、ちょっとあまりに多人数をとりあげていて総花なので、少し問題のある本であることは注意したい。
REF 李既トウ、高鳳翰、上海人民美術出版社、1985
REF 李金新・郭玉安 高鳳翰年譜、1990、江蘇美術出版社
REF 李金新・郭玉安 高鳳翰年譜、1990、江蘇美術出版社