平安時代(イメージは12世紀の京都の市場風景)の基幹産業が、 農業であることはいうまでもない。
しかしですよ。
その業務形態は「荘園」という名前を知ってるだけだ。
昔は、なんとなく、農奴のような農民が荘園にしばりつけられていて、農業労働を強制させられている閉鎖的な人民公社みたいなものを想像していたが、実際は全く違う。
前も、ある本で読んで、平安時代における農業は「企業」であるということは、知ってはいたんだが、今年出た本、、
を読んで再確認した。
かなりの資本をもった中小企業が、数ヘクタール以上の耕作地を借りて耕作して収益を得て経営者・従業員・奴隷の生活費・給与にしている。 5,6位の下級貴族も従事する有利な産業であった、ということである。決して農家の家族が生活するためだけにやっている産業ではない。 当時の通貨は銅銭だけでなく米や布や糸なども使われたのだが、通貨の形がなんであれ企業には違いない。荘園の名義所有者である大貴族、寺社などには賃貸料を払う、というシステムである。
現在まで残っているものでは「杜氏」の業務形態に近いかもしれないね。。これはあくまで想像に過ぎないが。。古代ローマ帝政時代での解放奴隷たちやエクセル身分の人たちによる企業活動にも近い。
この 基幹産業がつまづいたのは、たぶん12世紀までの温暖な気候で、大発展経済成長したあと12世紀末以降に、小氷期がおそって生産が後退したのが原因だと思う。この温暖気候・小氷期は欧州とは少し時期が前後していたようで、欧州の研究を一概に援用することはできないが、気候変動はあったとおもわれる。
こういう資本主義的産業構造は発展時にはいいが、現状維持や後退時に踏みとどまる力が弱い。平安末期から応仁の乱までの社会解体、階級闘争、戦乱の背景にはこれがあるんじゃないかと思っている。