香港の、Orientations 最新号Vol 49 No.6 Nov-Dec 2018
でボローニャのNicoletta Celliさんの「中国か中国でないか」という中国初期金銅仏についての解説がありました。
https://www.orientations.com.hk/
には、まだ最新号通知がでてないみたいです。安い船便で送ってもらっているはずですが、ネットのほうが遅いんだね。こういう記事があるから、この雑誌はなかなか貴重です。
でボローニャのNicoletta Celliさんの「中国か中国でないか」という中国初期金銅仏についての解説がありました。
https://www.orientations.com.hk/
には、まだ最新号通知がでてないみたいです。安い船便で送ってもらっているはずですが、ネットのほうが遅いんだね。こういう記事があるから、この雑誌はなかなか貴重です。
ハーヴァード大学美術館にあるこの金銅仏(左イメージ Wikimediaから)は、旧ウィンスロップコレクションのもので、昔から議論があるものです。まさに「中国か中国でないか」 どこで制作されたのか?
https://www.harvardartmuseums.org/art/204074
https://www.harvardartmuseums.org/art/204074
古くは、1941年に、矢代幸雄氏が
「健太羅式の金銅仏」という文章で、中央アジアという意見を述べておられます。
矢代幸雄氏、健太羅式の金銅仏、美術研究、No,117, ,September,1941, Tokyo
「健太羅式の金銅仏」という文章で、中央アジアという意見を述べておられます。
矢代幸雄氏、健太羅式の金銅仏、美術研究、No,117, ,September,1941, Tokyo
この健太羅=ガンダーラという書き方が時代を感じさせますね。
Nicoletta Celliさんの記述では現在は中国?という意見が多いようですが、新疆ウイグルのホータン 楼蘭あたりだったとしたら、中国というのは、かなり無茶ですね。どうも、新疆ウイグルを中国固有の領土と主張するプロパガンタの影響が多少あるのではないか?と感じてます。
それはともかく、これは山中商会があつかって米国へ輸出したものです。もともと西安や洛陽地域で出土したとしても、こういう金銅仏の場合、制作地は、また別に考えなければなりません。飛鳥奈良時代に、日本へ中国や朝鮮半島制作の金銅仏が多数輸入されたのは確実なことです。日本出土だからといって日本での制作だとは限りません。同様に、河南省や北京で出土したからといって中国産とは限りません。
私は、ホータンあたりでの制作じゃないか?と感じております。頭のてっぺんに大きな穴があって、なにか入れたのか?とされていますが、中国や日本の仏像にこういう例はあまりないんじゃないかな?金属の質も中国古式金銅仏とはかなり違うようです。
和泉市久保惣記念美術館、中国古式金銅仏と中央・東南アジアの金銅仏、1988
の解説でも、そういう見解がでておりましたし、このカタログを編輯した
中野徹・松本伸之氏は、まあ信頼できるほうだと思っているからですし、矢代氏の見解とも一致します。
私は、ホータンあたりでの制作じゃないか?と感じております。頭のてっぺんに大きな穴があって、なにか入れたのか?とされていますが、中国や日本の仏像にこういう例はあまりないんじゃないかな?金属の質も中国古式金銅仏とはかなり違うようです。
和泉市久保惣記念美術館、中国古式金銅仏と中央・東南アジアの金銅仏、1988
の解説でも、そういう見解がでておりましたし、このカタログを編輯した
中野徹・松本伸之氏は、まあ信頼できるほうだと思っているからですし、矢代氏の見解とも一致します。
青銅仏像が遠隔地に運ばれるもっと甚だしい例では、昔、リクルート主催のネットサイトでの記事で書いたことがある、スウェーデンのバイキング遺跡で出土した青銅佛(右イメージ Wikimediaから)の例があります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helg%C3%B6_Buddha_18194.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helg%C3%B6_Buddha_18194.jpg
ストックホルムの西18kmという、ほんとに郊外別荘地の庭先で発掘されたものです。
思い出したので、旧稿を多少手直しの上、再録いたします。
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1954年7月、スウェーデンのメーラレン湖のエロケー島のヘリエーで、住宅の庭先でバイキング遺跡を発掘していたときなんと青銅の仏像がでてきました。騎馬民族征服説で有名な考古学者:江上波夫博士が偶然スウェーデンにいて、発掘の翌日にみています。「高さ8.5cm,額に金の白毫、瞳にトルコ石、口に黒い充填物、頭部の後ろの穴と左肘に穴は青銅板でふさいであり、首の後ろの光背を付けた穴も塞いであります。」ref1 W.Holmqvist
1954年7月、スウェーデンのメーラレン湖のエロケー島のヘリエーで、住宅の庭先でバイキング遺跡を発掘していたときなんと青銅の仏像がでてきました。騎馬民族征服説で有名な考古学者:江上波夫博士が偶然スウェーデンにいて、発掘の翌日にみています。「高さ8.5cm,額に金の白毫、瞳にトルコ石、口に黒い充填物、頭部の後ろの穴と左肘に穴は青銅板でふさいであり、首の後ろの光背を付けた穴も塞いであります。」ref1 W.Holmqvist
とくに頭部の修理はしろうとくさいものです。この修理は当然土中に埋まる前に行われたものです。すると、一度災害にあって壊れたものを、ひょっとしたら別の国(ロシアとかで)修理したのではないか?と思います。様式から、インドの北部、風光明媚なカシミール地方かその隣のスワート地方で7ー8世紀ごろ(日本の飛鳥・奈良時代)に造られた仏像であると考えられています。なんと長い旅(直線距離で5000km)をしたものでしょうか!そしてだれがスウェーデンまで運んできたのでしょうか?発掘時には首のまわりに、いくらか革ひもが残っていました。その写真もあります。仏教徒が仏像を首でしばってつるす(みにつける)事は、ちょっと考えられないし、東大寺大仏の開眼会にインドの僧正がきたようなことは仏教が伝播した形跡のない北欧では考えられません。おそらく、ロシアからトルキスタンに入った、あるいは、地中海からオクサスへ旅したヴァイキングの1人が、護符のようにして故郷まで持ち帰ったのでしょう。金髪碧眼の偉丈夫が仏像とともに歩いたこの奇妙な旅には、夢想したくなるものがあります。
Ref1. W.Holmqvist ed.,Excavations at Helgoe,I,report for1954-56,Stockholm
Ref2. 江上波夫,スウェーデン出土の小仏像,ミュージアム,No.149,1963/8
Ref3. 繭山康彦,骨董勉強ノオト,1979
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Ref1. W.Holmqvist ed.,Excavations at Helgoe,I,report for1954-56,Stockholm
Ref2. 江上波夫,スウェーデン出土の小仏像,ミュージアム,No.149,1963/8
Ref3. 繭山康彦,骨董勉強ノオト,1979
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