北宋の画家:李公麟(1049年 - 1106年)の唯一の真作と古くから喧伝されてきた
が日中戦争時に焼失したとも噂され、70年以上も行方不明だった五馬図巻が再出現したことは、既に書いた。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/185271202.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/185313692.html
今回、
に赴き、実物を観賞することができた。
北宋時代の希有な白描画で、しかも李公麟の真蹟である可能性が最も高い作品であるという点では、確信を深めたが、やはり色々考えるところがあった。
第一図が最も優れていて、第五馬が別筆であること、は、古くからいわれたことである。乾隆帝の御題もそういうふうにみているようだ。
実際、最後の馬の絵と前の絵とは別紙で紙の継ぎに古い印はない。
ところが、紙の質は、同じようにみえる。これはどういうことなのだろうか???
これは推測にしか過ぎないが、「広い余紙」を切って再利用して模作補作したのではなかろうか??
当時の書画には大きな余紙(空白の部分)を残して制作したものが多い。この五馬図巻の黄山谷跋のあとの余紙もある。現在では、たいていは再利用されて切り縮められてしまっているが、かろうじて長く残っている例(南宋 高宗の徽宗文集序)もあるし、寒食詩巻のように、時間も場所も違ったであろう黄山谷の跋が同質の紙だったりする例もある。
第二の問題は、赤い淡彩は、補筆か?オリジナルか?という問題である。確かなことは第四馬の胴の紙の破損を埋めた淡彩は補彩であるということであろう。また、十七世紀にこの巻を所有していた蒐集家 商丘宋らく(1643-1713)の記述では微設色としているので十七世紀にはこの色はあったのだろう。そうすると、少なくともボストンの歴代帝王図のような二十世紀に大規模に補筆したというようなものではない、といえる。また奇妙なことに最後の補作とされる第5馬には淡彩はない。あるいは、馬の身体に多少青が使ってあるようにはみえました。
この絵具は水銀朱なのだろうか?どうももっと安いベンガラのような感じがするのだが、褪色もあるので、なんともいえない。
この種の色の問題については海外のチャイナのサイトではモノクロ画像に勝手に色をつけたものがあって、混乱するので注意したい。五馬の順序もムチャクチャなものすらあって呆れる。
第三に、黄山谷の題記の墨がやけに黒くて、ほとんど剥落がみえないようにみえることである、これは多少の違和感があった、ひょっとしたら薄れた題記に補墨があるのかもしれない。一方 紹興辛亥のころの曾ウの跋は非常に自然である。この跋のあとに
元時代の、柯九思の墨印が残っていることには注目した。古い巻子本複製は、
この跋が省略されていて、かなり短くなっていたのでわからなかったのだ。
第四に、そもそもこれはもともと「五馬」だったのか?ということである。宋末ぐらいまでの記録では「天馬図」であり、数の4紙という記述もあり、どうもはっきりしない。
「五馬図」になるのは明時代ぐらいからである。
第五に、人間が大きくて馬が小さい、ということだ。これは、子供つれがみていて、子供だったかその親だったが言っていたことなんで、私の考えじゃない、気がつかなかったのは不明の至りである。確かに、人間が大きくて馬が小さくて、これじゃ子馬・ポニーである。そりゃ昔の馬はサラブレッドほど大きくなかっただろうし、漢時代以前の馬はかなり小さかったという記録はあるようだが、宋時代なんだから、十分大きい馬のはずである。これはまあ、絵を描くときの流儀というか約束事のようで、現実とはちょっと違っても良いということなんだろう。
Ref. 五馬図巻 モノクロコロタイプ 巻子本
https://reijibook.exblog.jp/22709353/
高野絵莉香 黄山谷跋、李公麟筆「五馬図巻」の伝来について、史觀(171) , pp.22 - 43 , 2014-09-25
http://jairo.nii.ac.jp/0069/00036283