2019年02月28日

ヘンドリック・ドゥーフと米国

長崎古地図.JPG




長崎出島の商館長ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff、1777年12月2日 - 1835年10月19日) は、フランス革命戦争・ナポレオン戦争のあおりで、出島に 17年もいて、しかもその間にフェートン号事件にあうという波乱の人生を過ごした人だ。
  ただ、ちょっと昔からわからなかったのはオランダがフランスの属国になったあと、交易は全くなくなったのか、インドネシアのバタビアとの間には船が往復していたのか、、などである。
  前、長崎の日蘭貿易古文献を調べた雑誌論文を呼んだとき、少なくともある時期には、長崎出島の輸入品の筆頭は清(中国)産の生糸・絹であって、この東シナ海や南シナ海のまわりのローカルな交易が出島商館の主な収入源であることがわかって唖然としたことがある。オランダやヨーロッパからはるばる運んだ荷物や、日本からヨーロッパへ輸出する貨物は、出島オランダ商館の商売では、実はそう大きな部分ではなかったのだ。ただ、17世紀での陶磁器輸出はかなり大きな商売であったようだ。
 まあ、ローカルな交易で食っていけるなら、船さえあれば、出島を維持できたんだろう、、と思っていたが、実は違った。

 ネットで簡単に調べただけだが、イギリス船が海上封鎖をやっていて、フランスに降ったインドネシアのオランダ船を拿捕略奪したりしたようである。なかには英領のカルカッタまでひっぱっていかれた船もあるようだ。
  このへん、ちょっと複雑なんだが、フランス革命軍に追われたオランダ王ウイレムが英国に亡命して、英国の支持で「フランスの属国である」オランダ船への攻撃を容認するというめんどうな形になっているのである。一応大義名分はあるわけである。

  ジョナサン・スイフトの「ガリバー旅行記」にもあるように、海ではオランダ人と英国人は、もともとひどく敵対していたようだ。さらにドレイク以来の海賊まがいの英国船はオランダ植民地オランダ船をおそった。

 そうなると、出島にオランダ船はほとんど入れない。それで、なんと、ヘンドリック・ドゥーフ商館長をはじめとする出島のオランダ人とジャワのオランダ人は中立国の米国船をチャーターして交易することを考えた。ヨーロッパとの交易はともかく、インドネシア・インドシナ・中国(広州)・出島の交易ができれば、なんとか事業の維持はできるということのようである。公海というか英国船がいそうなところでは米国の旗をあげ、乗員もだいたい米国人だろうから臨検されても問題ない。 だいたい水夫は現地で雇いいれたりするのでいろんな国の人間が混じるのが普通だろう。
 そして、長崎港にはいる前にはオランダの旗にかえて幕府の役人を納得させたのである。そうはいってもオランダ語しゃべらない水夫や高級船員だらけだっただろうけれど、長崎通詞 も、出島のオランダ人たちにまかせて黙認したのだろう。オランダ船でもオランダ語をしゃべらない水夫なんてざらにいただろうから。

 しかし、米国船は、
 このネット記事
http://www.japanusencounters.net/
にみるように、9回も 長崎に入っている。とくに多いのがイライザ号で、イライザ号船長スチュアートは他の船の船長としても来ている、おそらくオランダ語に堪能で重宝されたのではなかろうか、、、ただ、1809年を最後にして1815年にオランダ王国が復活し、1817年?にオランダ船が来るまでの約6−7年間は米国船チャーターもできなくなり、出島のヘンドリック・ドゥーフとしては一番苦しい時代だったと思う。

 偽装されていたとはいえ、米国人が何度も長崎に入っていたということは、いままで全く知らなかった。

posted by 山科玲児 at 19:12| Comment(0) | 日記
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