2019年05月17日

中央アジアはイスラムだったのか?

西域の秘宝を求めて (1).jpg

 710-22年ごろ、日本の奈良時代でのころの、サマルカンド近郊ペンジケントの城塞ムグ山出土文書のことを考えると、どうも、中央アジアに対して古代からずっとイスラム圏であるかのようなイメージが間違いである、と考え直した。イスラム化したのは、まさにこの時代、8世紀以降だろう。それ以前の中央アジアは仏教やマニ教・東方キリスト教などの混在地だったのだろう。そこに強大な軍事力をもったアッバース朝サラセン軍が侵略占領してイスラムをおしつけたわけである。
現在の中央アジアがイスラム教圏だからといって、古代もずっとそうだったという妙な勘違いにとらわれるのは間違いだろう。

  ただ、同じイスラム圏でもインドネシアなんかは、え!イスラムだったの?と思うぐらい日本人にとってはイスラムイメージが弱い。まあバリ島は別宗教だしねえ。またエジプトは公用語がアラビア語で、固有のエジプト語は絶滅寸前のようになってるぐらい強くイスラム化した国であるが、ピラミッドやファラオやミイラのイメージがある。現地はイスラムの国なんだが、日本にいる日本人からは中央アジアよりはイスラム的にはみえない。これはイメージの問題だろうね。

 中央アジアの文化文明を、イスラムがすべて自分のものとして吸収しつくしたので、イスラム以前の文明イメージが判然とみえない、というところが違うところかと思う。
 サマルカンドというと、ブルーモスクやオマル・ハイヤームを連想するが、これらもすべてイスラム文明の精華という感じだしね。オマル・ハイヤームはニシャプール生まれだけど、例の「サマルカンド年代記(アミン・マアルーフ)」の影響です。

イメージはヤクボーフスキー、古代ピャンジケント、を収録した
加籐九祚  編訳 「西域の秘宝を求めて」, 新時代社, 1969

posted by 山科玲児 at 07:39| Comment(0) | 日記
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