2019年12月17日

呉座勇一『応仁の乱』と風呂

応仁の乱.jpg



日本の風呂の歴史
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/186787557.html

でいただいたコメントに触発されて呉座勇一の『応仁の乱』を読みました。

第四章の4「乱中の遊芸」の節にあります。確かに貴人の接待に風呂が使われていたようです。
しかし、熊倉功夫「茶の湯」第四章「趣向の成立」章による、呉座氏が使ったのと同じ文献「経覚私要抄」の紹介では、同時に150人の男が入浴、さらに後に女達も入浴しています。イベントといっていいでしょう。そのあと茶会、多量の酒がでる宴会になります。

これは現在でいうと箱根の温泉旅行に会社でいくとか、いうようなもので「ハレ」のもののようですね。これ自身は「贅沢」でしょうが、入浴そのものが「贅沢」というものではないと思いました。
ref. 熊倉功夫, 茶の湯  教育者歴史新書81, 教育者, 1977,東京
posted by 山科玲児 at 11:35| Comment(2) | 日記
この記事へのコメント
確かに入浴自体は贅沢ではないでしょうね。

ただ、温泉ではない、浴槽につかるタイプの風呂は設備や運用に大変なコストがかかりますから、庶民がおいそれと利用できたとは思えません。

このタイプの入浴が日常化したのはやはり都市が発展した江戸時代に入ってからでしょうね。

ただ、どこかで農村でも共同の風呂があったという記述を読んだ覚えがあります。安定的な村が成立した江戸時代以降ならそれもありえたでしょうね。
Posted by 名無し at 2019年12月18日 18:27


>名無しさん
>
>確かに入浴自体は贅沢ではないでしょうね。
>
>ただ、温泉ではない、浴槽につかるタイプの風呂は設備や運用に大変なコストがかかりますから、庶民がおいそれと利用できたとは思えません。
>
まあ、「おあむ物語」で読むような、戦国時代で、銭湯が普及していたか?というと、一部の都市をのぞけばありそうにない、と思います。寺院などの行事としての施湯などはあったでしょう。水浴のほうが一般的だったかもしれませんね。
Posted by 山科玲児 at 2019年12月19日 06:12
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