雑誌「墨」
http://www.gei-shin.co.jp/sumi/index.html
の 最新号で
没後15年 啓功 という特集があった。そのなかで、
啓功先生の学問芸術にふれて 文/内田誠一 (広島の安田女子大学)
という文章があり、そのなかで、啓功先生が遼寧省博物館にある伝張旭草書古詩四帖(イメージは冒頭部分)について、
>宋の皇帝の諱「玄」を避けて「丹」にしているので、北宋以後の書である
と啓功先生が既に解明しているのに、2020年現在でも「張旭」という伝承を使っているのはなぜなんだろうか?
という疑念が書いてあった。
この伝張旭草書古詩四帖については、日本語では下田章平氏が詳しい論文を書いていたようだ。
下田章平 伝張旭筆「古詩四帖」に関する一考察
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006343898/
https://core.ac.uk/download/pdf/87202353.pdf
当方は、相当昔からこの古詩四帖には好意をもっていた。この古詩四帖は、豊坊が跋に書いたように類書「初学記」をもとにしている。ただ、現在通行の初学記と比べて字の誤りというか異同がめちゃくちゃに多い。それは「玄」が「丹」に変わっているだけではなく、いたるところにある。そうすると、初学記の異本かあまり忠実でない写本・抜き書き・あるいは暗記で書いているわけだろう。宋皇帝の諱だけが変わっていて他が同じなら、確かに避諱であり、宋時代の書写だという証拠になるのだが、他も違いまくりなので、そうはいえないのではないかと思う。こういうテキストの異同異本は、あの有名な李白「静夜思」にもある。
李白 靜夜思 のテキスト問題
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/179737674.html
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/183288469.html
啓功先生の著書には先見性のある優れた見解が多く、当方も尊敬し愛読しているのだが、古詩四帖にかんするこの見解は、どうも誤りではなかったか?と思う。ただ、「張旭」という鑑定は董其昌の武断に過ぎるもので憶測カン以上のものではない。まあいつもの董其昌の煽りであるので、いまさらね。もともとサインなしで、謝霊雲−>賀知章−>張旭と推定書者が二転三転していたものだ。ただ、無闇に時代を下らせたり偽物呼ばわりをするのもいかがなものか?と思う。晩唐五代の無名人というのが妥当なところではないかと、感じている。
その一方、現在の中国大陸での議論では、乱暴なものが多い。
張旭だと信じ込んでしまっている人が結構いるかと思うと、
2016年の張旭<古詩四帖>弁偽 (簡体 中文 中華人民共和国のサイト)
https://news.artron.net/20160914/n867417.html
の一部では、色紙を使うのは宋以降なんていう、メチャクチャな議論が展開されている。それなら、日本の正倉院にある慶雲4年(西暦707年)の「詩序」が見事な色紙をつないだものであることを、どう説明するのだろうか?
まったく、ある中華人民共和国のサイト百家号で「どんなに和食をフランス料理に似せて器や料理で美しくしても、日本料理がフランス料理を超えられないのに似ている」とか書いてしまうのと、同様な無知蒙昧の発露であり、中国知識人の劣化には呆然とせざるをえない。