現代の書道史の常識では楷書は行書から生まれた。、それは三国志の時代ごろである。
ところが、一般常識は違うらしい。楷書を続け書き 早書きすることで行書が生まれた、というもののようである。勿論、現在使われている行書、宋以降に使われている行書は、楷書から崩したものが多いだろう。しかし、行書自体は漢時代からあり、そういうものを整える・スクエアにすることで「楷書」が生まれたのである。イメージは後漢の墨書行書 蘭州出土 1978である。九州国立博物館の三国志展で撮影した。なんとなく隷書の筆法も混じっているが、いわゆる隷書ではない。草隷と昔は呼んでいたが草書ではない。どっちかというと行書である。西晋のころの楼蘭出土残紙では、行書と草書ははっきりかきわけられている。下イメージに行書と草書の例をあげた(スウェーデン所蔵、ヘデイン発掘分)。西晋より少し新しいかもしれないが、4世紀ぐらいだろうか。紙のC14検査記録を探したが未だみつからない。楼蘭の木簡の例や呉朱然墓名刺などをみると、どうも初期の楷書は名刺とか宛名書きとか、そういう少しあらたまった用途にまず使われたらしい形跡がある。楷書は行書から生まれたので、楷書から行書が生まれたわけではない、ということを最初に示唆したのは、どうも故:伏見 冲敬 先生だったんじゃないかと思っている。現在は湖南省長沙などの井戸遺跡から膨大な量の三国時代の木簡などがでているので、ますます確かなことになっている。
知人の書道関係の仕事をしている人の、2016年ごろのブログに、古い間違った書体変遷の説にしたがった論説があったので、悲しくなった。まだまだ、こういう常識は一般化していないのだなあ、と再認識した。
知人の跡見学園女子大学文学部教授 横田恭三教授が、2013年の東京国立博物館 王羲之展図録に、王羲之以前の書の変遷というよくまとまった解説を書かれているので、一読をお勧めしたい。