2021年05月19日

レオナルドは蜜蝋画を試みたのか?

Anghiari_Horne_Leonardo.JPG


レオナルドが、フィレンチェ政府の会議場に「アンギエリの戦い」(イメージは「アンギエリの戦い」の 準備習作素描、ブダペスト)を制作したとき、蜜蝋画で失敗したのかどうか??という問題について、

ヴァザーリのレオナルド伝をハーバート・ホーンが英訳して注釈したもの(1903)(REF)、を読んでみる。、

注釈に書いてあるところによると、
無名人の写本 Anonimo Gaddiano
https://en.wikipedia.org/wiki/Anonimo_Gaddiano
によると、
プリニウスにしたがって ストッコ壁に彩色したが、レオナルドはプリニウスをよく理解していなかった。サンタ  マリアノヴェッラの「教皇の部屋」で作業していたとき、炭火を前において熱で絵を定着させていた。一方、本番の会議室で描いたときも、炭火で熱したのだが、絵の下部は定着したが、上部は乾燥せず流れてしまった。。

という記述になっている。

  この無名の記録者がレオナルドの実験の細部をわかっていたかどうかは、はなはだ怪しいが、

・炭火で熱した
・一部が定着しなかった

この2つは確かなようである。

この熱を使うというところで、蜜蝋画だという推定がでたのだろうが、よくわからない。レオナルドも秘密の処方を公開するはずないしね。なお、制作時期は春夏だから、寒すぎるためではない。

 それにしても、110年以上前、1903年の本でも結構役にたちそうなのが、驚きだ。この件がAnonimo Gaddiano写本が典拠だということはWIKIにものっていなかった。Anonimo Gaddianoの英訳ってのは刊行されているのだろうか?? 


REF
The life of Leonardo da Vinci by  Vasari, Giorgio, 1511-1574;
translated and annotated by Horne, Herbert P. (Herbert Percy), 1864-1916,
    London, 1903
posted by 山科玲児 at 07:35| Comment(10) | 日記
この記事へのコメント
情報ありがとうございます。
調べましたが、英訳はなさそうです。
ドイツ語:https://archive.org/details/ilcodicemagliab00freygoog/page/n450/mode/2up
イタリア語はJSTORで見ました。
読めませんが、原本はこちらのようです。
https://archive.org/details/BNCF-Indice-MSS-Magliabechiani-vol.-2/page/n165/mode/2up
この資料はとても面白いですね。少しずつ読んでみようと思います。
Posted by fontana at 2021年05月19日 16:11
>fontanaさん
>
>情報ありがとうございます。
>調べましたが、英訳はなさそうです。
>ドイツ語:https://archive.org/details/ilcodicemagliab00freygoog/page/n450/mode/2up
>
ドイツ語はとても読めないので、残念。フランス語ならなんとか読めたのですが。。
 ホーンの引用英訳をみると、ヴァザーリのような賛美の感じがなくシニカルな感じもあり、かえっていいのかもしれませんね。たぶん宮廷官僚みたいな立場の人が書いたものじゃないかな。レオナルドの記述が多いそうですが、チマブエからミケランジェロまで一応、通史的に紹介してるみたいです。19世紀まで活字出版はなかったそうですが、イタリアの美術史学生には周知の資料なのかな? 1903年のホーンが使っている資料なんだから、知らないということはないのでしょうが、日本ではあまりきいたことなかった気がします。
Posted by 山科玲児 at 2021年05月19日 18:05
イタリアの大学でもルネサンスを専攻しない限りはヴァザーリ以外の資料が取り上げられることはまずないですね(レオナルド、ミケランジェロは伝記や手稿が多いので特に)。池上氏は別の件で引用していたので、専門家には必須なのでしょうが、英訳がないのでは専門家用になってしまいますよね、特に日本では。(イタリア語も一般人には簡単にダウンロードできるサイトがなかったし。)
Posted by fontana at 2021年05月20日 10:14

>fontanaさん
>
イタリア情報ありがとうございました、
  やはりヴァザーリは大きいですね。
  ヴァザーリ以外の同時代、すこし後の記録などは、無視されがちなのかもしれません。まあ、名文じゃないということもあるだろうし、、
 ドイツ語の翻訳があるのは、この写本を研究したのがドイツ人のKARL FREYであったためのようです。
Posted by 山科玲児 at 2021年05月21日 04:55
蜜蝋とは関係がないのですが、むろさんに教えて頂き「ルネサンスの世渡り術」壺屋めり、芸術新聞社、という本を読んでいるのですが、最初のテーマがギベルティの洗礼堂の門の話なのですが、ここに「ブロンズという素材の降下さに注目を向ける必要があるでしょう。そのお値段は大理石と比べるとなんと約5倍!」という表記があり、昨日からその実例などをイタリア語のサイトで探しているのですが見当たりません。唯一見つかったのは、「金や銀と変わらない価値になった」という一言でした。
もし何かご存知でしたらご教示いただけますか?
このサイトに書かれていることも探しているのですが、それらしい記述が見つかりません。
https://tbyml.com/2018/04/03/ghiberti_e_arte_di_calimala/
Posted by fontana at 2021年05月23日 12:15
>fontanaさん
>
こういう価格や物価の問題は、昭和初期の日本がどうか、江戸末期がどうかということでさえすぐにはわからないことで、難題
ですが、
>「(青銅)が金や銀と変わらない価値になった」
というのは無茶な誇張だと思います。
  なぜなら、青銅の相対価値が上がれば、銅貨を鋳つぶして地金にして金貨や他の物資に替えたほうが有利になるからです。
 したがって、金貨、銀貨、銅貨の交換比率は、ものすごくおおざっぱですが(品位の問題があるので)、当時の地金価格の比のおおざっぱなめやすにもなるでしょう。だいたい金銀が相対的に安ければ、金板の打ち出しとか、銀板に金鍍金でつくるとかしたほうがいいことになりますからね。
  そして、私は知りませんが、例えばミケランジェロが石切場で大理石をいくらで買ったというような記録があれば、「いくら」を銅貨に換算すれば、おおざっぱな  大理石価格:青銅価格の比率をものすごく不正確ながら知ることはできるでしょう。

なお、ミラノ公にレオナルドが巨大な騎馬像鋳造(当然  青銅)を設計提案したが、その青銅原材料は戦争のための兵器鋳造にまわされてしまった故事にもヒントはあると思います。
Posted by 山科玲児 at 2021年05月23日 15:08
早速お返事いただきありがとうございます。
著者は1401年の洗礼堂の扉造りを決めるコンペでの勝因の1つが、ギベルティのやり方がブロンズの消費を抑えられると考えられたから、というような意見を載せていて、かつてそんな話は聞いたことがなかったので、気になってしまいました。
ミケランジェロはヴァチカンのピエタの為に450ドゥカーティ、ユリウス2世の墓の為には縦10m横7mの大理石に10.000 ドカーティカッラーラの石切り場に支払ったようです。
Posted by fontana at 2021年05月23日 17:38

>fontanaさん
>
どうも質問の意図を誤解したようです。その本のもとになる文献を期待されていたのではないか?と思います。それについては残念ながら存じません。

当時の大理石は、思ったよりも高価で、ざっと概算したら、KGあたりなら、現在の青銅地金より高いこともありそうです。こちらも、うかつで、当時のイタリアなどでは銅貨があまり使われていなかったそうで、計算できないようです。銅貨同然の低品位の銀貨は当時のヨーロッパにあったようですが、換算率資料はみつけておりません。。
>
Posted by 山科玲児 at 2021年05月23日 19:24
お返事ありがとうございます。
いえいえ、本の文献ではなく、他にも青銅が非常に高価だったことが裏付けられる事例をご存知かな?と思ってお伺いしたので、正解です。私は大理石が青銅より断然高価だと思っていたので。
イタリア語のサイトで、[ルネサンス時代青銅は大理石より高価で、フィレンツェは公共作品では青銅より大理石を好んでいた」という記述もみつけ、だから洗礼堂の扉を青銅にと考えた時その技術を持つ人がフィレンツェにはいなかったというのにも驚きました。青銅の技術は、ギリシャ彫刻から普通につながっているものだと思い込んでいたので。
Posted by fontana at 2021年05月24日 13:18
>fontanaさん
>
>お返事ありがとうございます。
>いえいえ、本の文献ではなく、他にも青銅が非常に高価だったことが裏付けられる事例をご存知かな?と思って

青銅価格が金銀に対して上昇したらしい形跡はありますが、それはギベルティの死後・または晩年のことで、新大陸から金銀が多量に入ったせい(金貨に対してのインフレ)と、大砲に青銅がつかわれるようになったせい(需要の増大)だと思います。なんかそのせいで16世紀には銅鉱山で財産を築いた人もいて、銅鉱山の絵なんかがでてくるんですよね。にわか勉強に過ぎませんが、ギベルティはコンテスト当時二〇歳以下?の若者だったはずなので、父親の関係者への影響力も大きかったんじゃないかな、と思います。ラファエロのように若年でローマで活躍したという例もありますが、この場合はどうなのかな。
Posted by 山科玲児 at 2021年05月26日 10:01
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