「ジハードは軍事戦闘だけではない、内面的な修行もジハードである」という大ジハードというハディースが偽だということを読んだ。こういう偽典は、より広い社会環境に適応し布教するために作成されたものであろう。
そういう偽教典や無理な解釈による社会環境への適応は、他の宗教では無数にあるが、イスラムではあまりないということなのだろうか?
例えば、東南アジアの上座部仏教では「いわゆる精進料理」文化はないようである。また、初期仏教教典では「軍隊をみてはいけない」なのに、連如は「仏法のために惜しむべからず、合戦すべき」と述べた(「帖外御文」蓮如上人御文全集)。 ビザンチンではイコン崇敬を正当化するために多くの神学が動員された。
カトリックの論客であった作家チェスタートンは「ブラウン神父もの」で「聖書を自己流に読む危険」について力説していた。 ローマン・カトリックは宗教改革までは、聖書の現地語翻訳を許さず異端あつかいしていた。「聖書」を信者には解放せず、聖職者だけのものにした。聖書ではなく、祈祷書とか、教理問答とか説教とか聖書でない宗教書を信者に流布して教化していたのである。そういうバッファを通すことによって、現実にあった宗教活動にしていたということでもある。これは、聖書を現地語に訳したプロテスタントの原理主義が悲惨な宗教戦争を生んだことを考えると、現実主義である。
仏教やキリスト教の場合、無数の偽書・強引な解釈・改革によって、人間の思想の変化、社会構造の変化に対応してきたという性格がある。
イスラムの場合、啓示であるコーランと預言者マホメットの言行録であるハーディスが中心軸で、これが変わらない。そのために、中東の社会や思想があまり変わらなければそれでいいのだが、近代社会とは相容れなくなっていると思う。大ジハードなどという偽作ハーディスができるのはイスラムを他の社会環境にあわせようとする一種の宗教改革だったのだろうが、原理主義の台頭をみると、それほどうまくいってはいないように感じた。