2022年01月03日

陸奥はどこだったか?

日本書紀ss.jpg

現在、陸奥というと、宮城より北を連想する。
日本書紀:景行天皇のところで、ヤマトタケルの話を読んでいると、陸奥の蝦夷たちと対決したのは、現在の霞ヶ浦あたりのようである。
当時の霞ヶ浦は巨大で海につながっていた。

霞ヶ浦の変遷  昔はどうなっていたか/約1千年前(霞ヶ浦河川事務所ホーム)
このあたりは湖が連なった沼沢地帯だったようだ。

で、ヤマトタケルは軍船で霞ヶ浦に入るという遠征をしていたようだ。
軍船が千葉県の太平洋岸を回ったので、外洋の波浪に耐えられなかった、、そこで弟橘姫の悲劇が起こったのだろうと推測している。
陸奥というのは「みちのおく」どんづまり、国境というような意味らしいので、その位置はどんどん変わるということのようだ。

しかし、
霞ヶ浦の変遷  昔はどうなっていたか/約1千年前(霞ヶ浦河川事務所ホーム)

を観ると、現代の東京は殆ど海と川の下、あるいは沼沢地だった。
千葉の国分寺国府があり、更級日記の著者が住んだのが市原市という房総半島の真ん中にあったのも無理も無い。東京近辺の古い神社も、現在のかなり内陸にあるが、当時はそういう感じではなかっただろう。




posted by 山科玲児 at 09:23| Comment(0) | 日記
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