
ローマの金貨が南ヴェトナムで出土したり、漢の漆器がアフガニスタンで出土したりすることは従来あった。なかでもシベリアの奥パツィリークの墓からでた戦国時代末期の絹の刺繍はめざましいものである。
発掘された品の美術的価値ではなく、あるいは、そのもの自身の美術的価値より以上に、背後の物語を想像させるが故に、貴重なものである。
香港の古美術雑誌 Orientations vol.53 No.2, March/April 2022, 112p-120P
のハンガリーのKristina Hoppal, Rome and China Endpoint of the Ancient Silk Road
は東欧での出土品を紹介していた。ブルガリアの墓からでた漢時代の白玉剣飾というのは、ちょっとめざましい。
Stara Zagora地方の Catalka(Chatalka)にある古墳から発掘された。重装備をまとっているローマ軍人の埋葬だった。ACE1世紀末と考えられている。
別の論文がネットにあって、写真・図版とも紹介していた。
A Han-dated ‘hydra’-type nephrite scabbard slide found in Chatalka (Bulgaria): the earliest and most distant example of Chinese nephrite distribution in Europe
https://www.academia.edu/9234763/A_Han_dated_hydra_type_nephrite_scabbard_slide_found_in_Chatalka_Bulgaria_the_earliest_and_most_distant_example_of_Chinese_nephrite_distribution_in_Europe
この玉器は、サルマタイ風の鉄剣に付属していた。
もし、、これが、そういう履歴なしでケースに入っていたら、疑いなく中国内地出土の漢時代の玉器だと考えるだろう。時代は前漢後期かな、という感じである。明らかに中央(洛陽や長安などの諸都市)の作行きであって、地方作品・辺境作品という感じは微塵もない。
呉大徴の古玉圖コウに図版がある(上イメージ)。
C.T.Looの図録(1950)にも、よく似た玉剣飾が掲載されている(下イメージ)。
これは、どういう用途のものかというと
剣の鞘を帯に紐でつけるための金具(玉製ではあるが)である。
江戸時代では刀の鞘は帯にさした。しかし、ササン朝ペルシャでは紐でぶら下げている。そういや、有名な聖徳太子像でも剣はぶら下げである。
しかし、どうゆう経緯で、ブルガリア=トラキアのローマ軍人にたどりついたのだろうか? いろいろ想像を刺激するところではある。