法隆寺釈迦三尊像が 若草伽藍火災後、和銅再建時に、再造されたとか、他寺からもってきたとかいうことになると、光背銘文についても考えなおさないといけなくなる。
しかし、少々重いご本尊でも、火災のときは、運び出せるものらしい。
雷による火災でも金堂の本尊を運びだせる:石原秀晃「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/507b12219f06899aa59fec8c306cf869
確かに、薬師寺のあの重そうな金銅薬師三尊像もまた火災のときとりだされてるんだものなあ。軽い乾漆像ならもっと簡単だろう。
法隆寺釈迦三尊像については、確か東野治之氏が面白いことをいっていたと思う、
「光背の頂のところが少し前にゆがんでいる(イメージREF)のは、火災のとき光背をはずして後ろに落としたとき衝突で変形した」という仮説である。光背はかんぬきのようなものでとりつけてあるから、はずすことはできそうだ。ただ危急のときはそのまま運ぼうとして失敗したのかもしれないなあ。そのとき、光背周囲の飛天は全部はずれてとんでしまい、また頂部の変形があったのかもしれない。メトロポリタンの北魏金銅仏の例ではほぞ穴にさしこんでいるだけなので、乱暴にあつかえばとれてしまう。
メトロポリタン美術館 北魏 金銅仏 ACE524
https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/42162
法隆寺の昭和資材帳 調査でも 飛天がでたという話はないので、若草伽藍炎上のときにとびちってなくなったとしたら、さすがに保存されてはいないのだろう。
飛天がなくなっているということは、むしろ火災で避難した状況証拠といえるかもしれない。
Source REF 法隆寺大鏡 49集 大正6年 1917 写真著作権消滅すみ