油彩技法をイタリアに伝えた人として、アントネッロ・ダ・メッシーナがいわれることが多い。ヴァザーリの列伝には、アントネッロ・ダ・メッシーナがフランドルまで旅して油彩技法を習得した、という話がみてきたように書いてあったりする。しかし、事実はかなり違うようである。
ヤマザキマリさんの本
の、アントネッロ・ダ・メッシーナの項目で、
ヒューホー・ファン・デア・フースのポルティナリ祭壇画のフレンチェ到着がきっかけで、北方絵画技法の学習が始まり、アントネッロがフランドルへ旅したということを書いているが、アントネッロはポルティナリ祭壇画の到着前に逝去している。 どうも、この本、こういう時系列のケアレスミスがめだつようである。また、ポルティナリ祭壇画はブルッヘで制作されたものではない。ゲントのフースの工房、またはブリュッセル近郊の「赤の修道院」内での制作である。
また、古文書の誤読らしいが、イタリアへの油彩技法伝播について、ペトルス・クリストスがミラノで働いたという説がクローズアップされたことがある。ミラノのスフォルツアの宮廷にアントネッロ・ダ・メッシーナもいたということになっている。
これについては、60年以上前の、1961年にMartin Davies(ref)が既に強く否定している。
これらの伝説の背景には、ロヒールやブーツやフース系ではなく、まずヤン・ファン・アイク系の絵画や技法がルネ・ダンジューに仕えたバルテルミー・ダイクによってナポリから入った、そしてナポリのコラントニオ親方がまず受容した。アントネッロもコラントニオで学んだ。 そのことがヤン直系のようにみえるペトルスの伝説につながったのだろうと思う。
アントネッロ・ダ・メッシーナの書斎の聖ヒエロニムス(NG, LONDON)
Saint Jerome in his Study'
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/antonello-da-messina-saint-jerome-in-his-study
と
バルテルミー・ダイクと同一視されるエクスの画家の作品(ブリュッセル)
https://www.wga.hu/html_m/m/master/aix_annu/jeremiax.html
との様式の酷似にはそういう背景があるのだろう。
ref. Martin Davies, The Earlier Italian schools.National Gallery (Great Britain),2nd ed. Publications Dept. National Gallery, London, 1961.