日本において、昔、汝窯がわけがわからなくなったのは、1930年代〜1970年代ぐらいの一時期、耀州窯(イメージ 当方撮影)系統の製品を「汝窯」と呼び、英国でデヴィッド卿が「汝窯」と呼んでいたもの、即ち21世紀の現在「汝窯」と呼んでいる陶磁器を「汝官窯」と呼ぶというわけのわからないことをやっていたのが、混乱のもとであったようです。
事実、壺中居の広田不孤斎の著書(1957年初版 ref)でも、三菱の岩崎家の「耀州窯」の「青磁刻花牡丹文瓶」(現在 大阪市立東洋陶磁美術館)を「汝窯」と記述してます。一方、台湾の國立故宮博物院の場合はデヴィッド卿と同じ考えで「汝窯」を認識してました。1961年刊行の「故宮蔵瓷 汝窯」は、その方針で編集してあります。当時は國立故宮博物院は台中にありました。
昔の文献を読むとき、この事情を知っていないと訳がわからなくなります。
また、臨汝窯というのがあって、これも混乱のもとになっています。ここは、耀州窯系統のものや汝窯類似のものなど、多様な陶磁器を製造していた窯だったようです。そのために、21世紀の現在「耀州窯」とされているものに対して、1960年代に「汝窯」と呼んでしまう遠因にもなってしまったんですね。
例えば、
河南省臨汝県宋代汝窯遺址調査-1-
馮 先銘,杉村 勇造 訳
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I797594-00
これは、1965年に日本で刊行された、中華人民共和国の古陶磁専門家の古窯遺跡調査報告ですが、中華人民共和国でも、臨汝窯が汝窯ではないか、と推測していたようです。
これは、1965年に日本で刊行された、中華人民共和国の古陶磁専門家の古窯遺跡調査報告ですが、中華人民共和国でも、臨汝窯が汝窯ではないか、と推測していたようです。
ref, 廣田不弧斎「骨董 裏おもて」(昭和40年三版、ダヴィッド社)