2023年01月22日

小山富士夫が語る彬記

岳彬.jpg

宋赤絵について、小山富士夫氏が書いていた(ref1)が、この短い文章は、岳彬(岳文軒、屋号  彬記 1896-1955? 1954)に実際に会った記録としても、貴重である。イメージはネットで得た岳彬の写真

 大物の悪役として、語られることの多い岳彬だが、実際に会った人の記述は少ない。


彬記は北京前門の瑠璃廠のならびの炭児胡同に堂々たる屋敷を構えていた。
昭和16年の春、私は彬記を二度たずねた。一度は梅原龍三郎さんにさそわれ、一度は繭山順吉さんといったことがる。


彬記は茫洋として馬賊のような風貌をし、がっちりとした大きいからだの男だった。金力でも眼力でも度胸でも、北京で彬記に及ぶものはないという噂だし、


堂々とした構えの入口には表札がなく、大きい重い門をあけると前庭があり、中門をくぐると広い院子がある。その左手のがらんとした部屋に二度とも通されたが、骨董商であるが広い部屋に何一つおいてないし、三方の壁にも何一つかかっていなかった。梅原さんといったときは宋の磁州窯の丸い蓋物を2つ奥から運ばせ見せてくれただけだったが、一つは目のさめるようなすばらしいものだった。繭山さんといったときは陶片だけで何も見せてはくれなかったように記憶する。無愛想にどっしりとこしかけ、何一つしゃべらず、いかにも大物という感じだった。


まあ、こういう愛想のない人なので、敵をつくりやすかったのだろうと思う。
だからこそ、中国共産党治下の1952年の北京で岳彬が逮捕され1954/1955年に獄死したということだ。罪状の中心は龍門石窟 賓陽洞の帝后礼仏図浮き彫りの破壊である。しかし、この件は骨董商らしからぬ不手際があり、本当に岳彬がラスボスだったのかは、わからない。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/189951862.html

小山氏は、噂話として、

 また終戦後北京から引揚げた北京通の人から彬記の噂をきいたことがある。終戦のどさくさに彬記が故宮の秘宝のなかでも特に
重要なものを、莫大な金をつかって何点かぬすみ出させ、これをどこかに埋めたという噂がたち、彬記は牢に入れられた。

という噂が終戦直後の時期にあったそうだが、この噂があったこと自体が、歴史の謎を解明する鍵になる。
    終戦直後では、公式には「故宮文物」は南遷していたはずで、北京故宮博物院は空っぽだったはずである。満州でラストエンペラーから没収したものも今の遼寧省博物館に仮保管されていた。
 岳彬の真相はともかく、こういう噂が出るということは、日本軍占領下の傀儡政権のもとで、細々ながら故宮博物院が営業していたし、宝物もあるていどはあった、ということが、当時の北京の人々には常識だったということになる。
  その件は、
2016年03月03日 第3の故宮博物院 証拠がでた
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/174303837.html
2014年03月05日 第3の故宮博物院
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/88969626.html
に書いておいた。

ref1 小山富士夫、骨董百話・5 宋赤絵牡丹文陶片、藝術新潮 1969年5月号 84-85p、
posted by 山科玲児 at 08:42| Comment(0) | 日記
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