正倉院:大小王真跡帳(上イメージ 明治時代のこの複製では紙色が違っているのがご愛敬)実物は青い紙に書いてあります。
これは、天平宝字2年(758)6月1日、に光明皇后が東大寺に「王羲之王献之の真跡」を献納したときの文書です。
宮内庁URL
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010571&index=0
ここに記載された 宝物は、
黄紙の墨跡の巻子本で、表が王羲之の書、裏が王献之の書という変わったものです。
奕世の珎(寶) と最高級の賛辞が書いてあります。 まことに不思議なものですが、私は昔からこのように推測しています。
これは1枚の紙の裏表に王羲之の手紙と王献之の手紙が書いてあったものでしょう。
1枚だから、こういう表装になってしまったのです。平安時代12世紀初頭の西本願寺三十六人家集から流出した断片である石山切にも、分解解体両面剥ぎはしないで、両面から鑑賞できるように表装した掛軸があると聞いたことがあります。唐時代に和紙を表裏2枚に剥ぐ両面剥ぎのような技術が普及していれば、表裏2枚に剥いで並べたでしょう。鳥獣戯画丙巻のように剥いで継ぎ合わせたでしょう。
この墨跡の真贋は、現物が失われている物なので判断しようもないのですが、なぜ表裏に書いたものがあるのか? あるいはそういうものがあってもおかしくないと唐時代玄宗皇帝の時代の人が思ったか? という問題がおきます。
これは、手紙とその返事だと思います。古い時代には来た手紙の余白に返事を書いて送り返したという例があるようです。
現代のEmailの返信みたいですね。
なお、東晋当時は、隣りの人にも手紙を出したということですので、父子が近くに住んでいても自然です。これは貴族同士の訪問の場合、儀礼がやかましかったので、その面倒を避けて手紙ですませたのでしょう。
王献之に逸話がありました。謝安に得意の書法を駆使して書いた手紙を送ったのに、返事をその上に書いて返送されてきた、俺の書を尊重していない、けしからん、、とかいうものですね。孫過庭の書譜で紹介されてました。献物帳の墨跡がほんものであってもなくても、そういう設定で解釈され珍重されたものだと思います。
近世でも、後水尾天皇が来た手紙の余白に返事を書いて送り返した例が俵屋宗達関係文書としてありました。
イメージ ソース:朝陽閣集古 石印 大蔵省印刷局
王献之に逸話がありました。謝安に得意の書法を駆使して書いた手紙を送ったのに、返事をその上に書いて返送されてきた、俺の書を尊重していない、けしからん、、とかいうものですね。孫過庭の書譜で紹介されてました。献物帳の墨跡がほんものであってもなくても、そういう設定で解釈され珍重されたものだと思います。
近世でも、後水尾天皇が来た手紙の余白に返事を書いて送り返した例が俵屋宗達関係文書としてありました。
イメージ ソース:朝陽閣集古 石印 大蔵省印刷局