米寿を過ぎた、中野美代子先生だが、かなり前の著作を最近読むことが多い。独自の面白い見解が多く啓発されるところが多い。
ただ、明白な誤謬もあり、教科書的な典拠/論文の典拠には、危なくて使えないように思う。
今、乾隆帝本を読んでみた、、
ただ、明白な誤謬もあり、教科書的な典拠/論文の典拠には、危なくて使えないように思う。
今、乾隆帝本を読んでみた、、
中野 美代子 , その政治の図像学 乾隆帝 (文春新書) 新書 – 2007/4/20
1.156頁に、
蘇州の世界遺産庭園 獅子林が 倪雲林がつくったことになっている。
全くの間違い。倪雲林は獅子林の絵を描いただけ。それも陳汝言との合作である。ただこの絵が有名になったせいで倪雲林の名前と獅子林が結びつけられるようになっただけである。
江南庭園史を知らないのだろうか??
また、現在の獅子林庭園自体、一度荒廃していて、元時代の名残は奇石怪石を積み上げた仮山にかろうじて残っているだけであり。建築や全体構成は清朝の庭園である。
2.18頁。日本の天皇の 諡号 つまり「後醍醐天皇」などが、光孝天皇(884−886)以後途絶え、江戸後期 光格天皇(1779-1817)以後復活したというような記述がある。そうすると、歴史上有名な天皇の名前、宇多天皇、醍醐天皇、一条天皇、白河天皇、後白河天皇、後醍醐天皇などなど、皆、江戸後期につけたことになる。
この件は重大なので、調べてみる必要がありそうだ。
ただ、いくらなんでもそれはないだろうと感じている。ただ、仁徳天皇陵が江戸時代の認定であるというような例もあるからね。
日本では貴人の本名をできるだけ言わないようにして、あだ名や間接的な呼び方をするという習慣がある。御門とかXX殿(邸宅名)とか駿府とか黄門とか堀川大納言とかね。本名そのものはもとより諡号ですら文献で使わないことが少なくないのだが、それでもねえ。
漢風諡号を止めちゃったというのはその通りで、そもそも漢風諡号は皇帝それぞれの生前の徳を称える漢字二文字で名付けられるものですから、例えば後嵯峨というような三文字で地名由来なんてのは中国的にはあり得ない訳です。
普段は天皇は「ミカド」や「お内裏様」などと呼ばれ、上皇は「院」「上」などと呼ばれていました。
上皇を区別する必要があるときには嵯峨、村上、一条などゆかりのある地名をつけて呼び(院号)、それを亡くなった後の天皇の名にも流用したのが追号です。
何々院というのは大邸宅に住むような人には誰にでも使用できる尊称ですから、幕末近くになると水戸学的な立場の人たちから批判され、漢風諡号が復活することになりました。
この時期の天皇は半分以上譲位しているという事実と関連していると思っています。詳細は3/6の記事で。
>noさん
>
>漢風諡号と院号・追号の問題ですね。
>
>漢風諡号を止めちゃったというのはその通りで、そもそも漢風諡号は皇帝それぞれの生前の徳を称える漢字二文字で名付けられるものですから、例えば後嵯峨というような三文字で地名由来なんてのは中国的にはあり得ない訳です。
>普段は天皇は「ミカド」や「お内裏様」などと呼ばれ、上皇は「院」「上」などと呼ばれていました。
>上皇を区別する必要があるときには嵯峨、村上、一条などゆかりのある地名をつけて呼び(院号)、それを亡くなった後の天皇の名にも流用したのが追号です。
>何々院というのは大邸宅に住むような人には誰にでも使用できる尊称ですから、幕末近くになると水戸学的な立場の人たちから批判され、漢風諡号が復活することになりました。