「蘭亭序」はなぜ『文選』に採録されなかったか、
というテーマは、たぶん昔、故:福本雅一氏の「蘭亭嫌い」で読んで、この件だけはもっともだとは、思った。
で、それについての中国人の論文があったので、紹介する。
で、それについての中国人の論文があったので、紹介する。
東アジア研究(大阪経済法科大学アジア研究所)第32号、2001年5月、105-109
祁 小春
「蘭亭序」はなぜ『文選』に採録されなかったか
file:///C:/Users/yamashina/Downloads/asia_32_07.pdf
まあ、これはもっともだとは思うが、それは昭明太子の美学にはあわなかった、ということだろうと思う。
『文選』の最初には、「賦」というカテゴリーの文章が選んである。左思の三都賦とかである。これがまた豪華絢爛、技巧の限りを尽くしたような文章と文字の粋である。
逆にいえば、内容より技巧の誇示に走った文章である。これらは、とくに日本人には親しみ難い文章だと思う。
蘭亭序が親しまれているのは、むしろ口語的な文章だからだろう。技巧的には素朴で出来の悪い文章だからだろう。その分読みやすく、真情がこもっていて、日本人にも親しみやすいということである。日本人に親しまれている陶淵明の文章と比べてすら口語的で、ある意味率直愚直である。陶淵明作品が『文選』に入っており王羲之作品が入ってないのは、まあもっともだと思っている。