2012年01月23日

病的細密画

金明地IMG_3054.JPG


清明上河図の画家:張擇端  の絵は他には残っていません。これは、張擇端の絵だという伝承があり、サインもある絵「金明地争標図」(天津芸術博物館)ですが、様式的には50-100年後の、南宋時代の絵にみえます。金明池でのドラゴンボートの行事を描いています。しかし、28.5x28.6cmの大きさの絹に1000人以上(100人じゃありません)の微小な人物を描いてます。
上の絵の極一部を下に拡大し、定規もつけました。

【清明上河図】橋の下の魚 のときも思ったのですが、こういうのは、写実というのとは違うのではないか? 虫眼鏡でみないとわからない象牙彫刻とか、木の実を彫刻して船にするとか、米粒に般若心経を書くとか、そういうアクロバットのようで、芸術を鑑賞しているといえるのかどうか疑問に思います。
posted by 山科玲児 at 09:58| Comment(4) | 2012年日記
この記事へのコメント
「神は細部に宿る」という言葉もありますけどw
何が描かれるているか見定めるのは、絵画鑑賞の基本だと思いますが、古い作品は状態も悪いですし、人間の視力にも限界がありますから、別につきあう必要はないですね。細密さを追求すればするほど、リアリズムからも離れていきますが、かといって芸術の質との関係は、また次元の違う話だと思います。たとえば、今では分子を人工的に並べたりできるわけですが、そうやって作られた「作品」を電子顕微鏡で芸術として鑑賞することもできるでしょう。 あるいは、その作者の狙いは、なぜそのような作品が制作され、それが「鑑賞」されるのかという、芸術経験そのものに対する問いかけにあるかもしれません。つまり鑑賞者の趣味判断を宙吊りにして、通常の芸術経験が可能なフレーミング(作品)の成立そのものを疑い、問いかけることを狙ったコンセプチュアル・アートといいますか、現代アートはそんなものが多いわけですが、それを観賞者が、さらにメタレベルでフレーミング(解釈)してしまうことで、その作品を味わう(鑑賞する)こともできるわけですね。
ちょっと話がヘンな方向に行ってしまいましたが、芸術鑑賞とは、いうまでもなく、作品に感興をもよおし、味わうということですが、そこには作品を媒介として、作者との間の何らかのフィードバック?が生じてその感興が増幅される過程があるのかもしれません。

清明上河図は、事物の意味を細部まで徹底的に、説明的に描いてるのだと思います。その意味では、自然主義リアリズムというより、イラストレーションに近い。図解ですね。細部の描写にまで意味(摂理)があり、曖昧なところはありません。たとえば、ベン河は流線によって水の流れの強さを表し、それによって遡上する船舶が押し戻され、方向を立て直すために人々が慌てふためいている因果関係が、なんなく了解できます。
対照的に城門前の濠は、水流線は描かれていないのでほとんど流れがなく、水は澱んで不透明なことが了解できます。作者は、その澱みの水面に浮かび上がってきた一群の魚影を、それとして描いているのであって、不明瞭なのが自然で、意図的にそのように描かれているのだと思います。小生は子供のころ、近くの川でこういう場面をよく体験してましたので、絵の中に魚を発見した時は、かつて橋の上から魚を発見したときの嬉しさを思い出して、感慨深いものがありました。
ただ、人によって魚と見えるか見えないか、視力はもちろん、ゲシュタルトの認知力にも個人差があり、そこに何が描かれているか、図が小さかろうが、大きかろうが、わからない人にはわからないので、これはどうしようもありません。
Posted by 山本雅煕 at 2012年01月23日 22:51
  長文のコメントありがとうございました。

 中国古画とくに「金明地争標図」における細密画と写実に関する考えを述べているんですが、ちょっと御意図がつかみかねます。
 ・清明上河図の魚については南部藩士さんのご教示に従ってブログをみましたところ、確かに良い写真がありました。検討中です。
 ・水中の魚については、長崎の中心の中島川でも鯉がいて、昨日もみました。ランタンフェステバルですので。
 ・現代?アートでは故:高松次郎さんの作品が好きでしたね。1970年代ごろから、機会ある都度特別展にはいっています。

 

Posted by 山科 at 2012年01月24日 08:02
>中国古画とくに「金明地争標図」における細密画と写実に関する考えを述べているんですが、ちょっと御意図がつかみかねます。

山科さんの述べられた全体の文意が、細密な表現を目を凝らしてみることが芸術鑑賞といえるのか、という問いかけにあると思ったので, 私見を述べさせていただきました。芸術鑑賞が成立するかどうかは鑑賞者次第で決まり、作品の細かさ(大きさ)とは関係がないと、分子レベルの作品を例に述べたつもりです。コンセプチュアルアートを持ち出して混乱させてしまったかもしれませんが、芸術の定義そのものを挑発的に問いかけてくるような作品、あるいは美的趣味そのもを批判するデュシャンなどのダダ的な作品でも、美術館に展示されれば、観客は「芸術鑑賞」しますし、極端にいうと、そこらに落ちている石ころでも、ゴミでも芸術と思えば芸術ではありませんか?

細密画と写実性の関係でいうと、先のコメントに述べました通り、細密さの追求はリアリズム(自然主義リアリズム、一般的な意味での写実)から離れていくとおもいます。異常に高解像度の写真がどこかウソっぽくみえたりするものですが、ただ写実的と見えるかどうかは、いろいろな指標があるでしょうし、最終的には主観的な判断としかいえませんが。(17世紀オランダの静物画など、細密でありながら自然な写実性を兼ね備えているものがあります。)

「金明池争標図」は実見しておりませんが、図版で見る限り、写実性はあまり感じられず、むしろ細かい人物描写の胡粉の白さの煌めきが装飾的効果をはっきしていてなかなかよいと思います。
Posted by 山本雅煕 at 2012年01月24日 10:30
 これは私の最初の文章
>芸術を鑑賞しているといえるのかどうか疑問に思います。
がいけなかったようですね。失礼しました。

 むしろ、「細密画において、芸術品工芸品に対する中国的な特徴・考え方があらわているように思いますが、文章・思考としてまとめきっておりません。」のほうが私の本旨です。
オランダのGerrit DouやFloris Gerritsz van Shootenなどのアプローチとも全く違いますしね。
Posted by 山科 at 2012年01月24日 21:17
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