2013年03月13日

義和団事件以後の中国文物流出 の裏側

 ロンドンの老舗の古美術商 BLUETTの帳簿 記録には、1900年ごろは日本ものが多かったが1910年までには、中国陶磁器が商売の中心となったことが反映されている。これは「義和団事件のあと略奪などで多量の中国美術が欧米に流出して、中国美術が再認識された」という通説にあう。ただ、BLUETTが当時どこから仕入れていたのかというと、北京と、パリらしい。パリには頻繁に買い付けにいったようだ。北京はともかく、なんでパリなのだろう? 北京はいったわけではなく、取引先があったということのようだ。
それに、それより少しあとにロンドンで活躍していた山中商会がまったくでてこないのは、どういうことなんだろうか?
 REF. Dominic Jellinik, Provenance and Posterrity Bluet Archive,Orientations、2011, Nov./Dec.

 そこで、パリで活躍した古美術商 C.T. Loo(廬欽斎)の記事も最近またあったので、読んでみると気になることがでてきた。C.T.Loo(1880-1957)は20代でパリで会社をつくり大きな商売をしているようだ。資金源やバックはなんだったのだろう? そこでひっかかるのは1903年23歳のときのパリで働いていたTon Ying Co.の共同経営者だ。このTon Ying Co.は前記のBLUETTの記録にもでてくるらしく1920年代まで仕入れ先であり、パリ、上海、ニューヨークに支店があったグローバル企業である。 C.T. Looはそのあと1908年に、別会社Lai Yuan Co.を立ち上げたらしく、ここから離れたらしいがTon Ying Co.はその後もずっと活躍していたらしい。
 REF. Daisy Yiyong Wang, Papa's Pagoda, Orientations March 2013

 この線を探っていくと、
張静江(1877−1950)浙江呉興出身、原名・増澄、一名・人傑をもって字とする
1901年 駐フランス公使孫宝(王奇)の商務随員の身分でパリへ行く。 通運公司を作り中国の骨董を
売買する。
1906年 世界::の組織に参与し、週刊「新世紀」を刊行、無政府主義を宣伝する。
1909年(宣統元)帰国し通義銀行を開き、孫文の革命活動の資金援助をする。中国同盟会に加入。 のちに上海などで商売をする。蒋介石と知り合う。

  という人物にたどりつく。

 C.T.Looのパトロンであり、Ton Ying Co.は通運公司であり、なんと義和団事件直後から中国文物をパリに輸出しまくっていたことがわかった。


なんのことはない、中国文物流出の嚆矢・主犯は中国人要人だったのだ。

 しかも、その利益が孫文の革命運動の資金になっていたらしいのだ。


REF. The Loouvre from China: A Critical Study of C. T. Loo

 張静江は、国民党の有力者・政商になり大富豪になった。蒋介石のパトロンでもある。

 恭親王が山中商会に売った宝物の資金が、清朝復興運動(復辟運動)の資金に消えたように政治に皆金が吸い込まれたようだ。山中商会が北京で仕入れてロンドンやニューヨーク、東京で売るというビジネスモデルをつくったのも、通運公司が欧米に市場をつくってくれたからであろう。

 NHK出版の本:「流転 清朝秘宝」が全く見当違いの本だったことがわかる。
posted by 山科玲児 at 20:33| Comment(0) | 2013年日記
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