貧架に、「唐詩三百首」の抄本がある。これは、真珠湾攻撃の数ヶ月前、1941年秋に 王長春という人が神田氏へ贈ったものである。イメージがその献辞である。
長年、この王長春という人は、どういう人だったのか知りたいと思っていたが、最近ようやく輪郭がつかめてきた。
上海で、「呉鐵城市長のもとに専門員として対日交渉の事務を担当した人であり、後に市政府効用局長、首席参議の要職を歴任され」た人で、戦後は台北に逃げ昭和28年6月29日に交通事故のため逝去。
第二次上海事変のときには東京で上海市政府役人として勤務していたようなので、日中外交畑が長い人のようである。中国から台湾へ脱出するときは、あの悪名高い姦雄 辻政信の協力を得ているようだからなかなか裏の世界にも通じていたようだ。台北でも微妙な立場だっただろうから、2.28事件後、台湾で白色テロが荒れ狂ったころに「交通事故」というのもなんとも重苦しい感じがする。そもそもそのころの台北に自動車がたくさん走っていただろうか??
王長春氏の墓は、日本の富士霊園にあるそうだ。
日本人が作った漢詩を集めた「和詩選」7册を1942年に上海商務印書館で出版している。というか、商務印書館ってすぐ復興したんだね。第二次上海事変で日本軍に爆撃されたはずじゃなかったのか?
上海で日本人に22史サツ記や史記を講義して喜ばれていた文人でもあったようだ。
この王長春氏の長子の王和之氏は医者で北京にいたが、文化大革命中の1969年12月北京で不遇のうちに逝去、次子の王勝之氏は、多芸な方だったようだが、なんと東京西麻布の中華料理店 北海園を経営して成功し、幸福な生涯を送ったようだ。
北海園
http://tabelog.com/tokyo/A1307/A130701/13001319/
あの、餃子の北海園がこんなところにでてくるとは思わなかったなあ。。ただ、今 北海園が良い店かどうかは微妙。中華料理店は変動が激しいから。台北でもそうで、栄枯盛衰が激しすぎ。
でも、2.28事件で迫害された邸永漢氏が台湾から日本へ亡命、経済的社会的には成功したように、こういう人は少なくないのだろう。なんか日本って駆け込み寺みたいですね。
SOURCE: 牧田諦亮 人生万事塞翁が馬;;浄土 第四十二巻第八号 2-5p, 昭和51年8月1日 Vol.42 no.8 1976-8-1 pulished
http://jodo.ne.jp/pdf/1976-08.pdf